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2022/11/25
2022年ノーベル物理学賞解説
本記事は会員向けとして発信されたものを再掲するものです。ご参考までご紹介いたします。
2022年ノーベル物理学賞解説
著:代表理事・富田章久
北海道大学大学院 情報科学研究院 教授
2022年のノーベル物理学賞はアラン・アスぺ,ジョン・クラウザー,アントン・ツァイリンガーの3氏に与えられることになりました.
授賞理由として,「もつれ合った光子を用いた実験,ベル不等式の破れの確立と量子情報科学の開拓」があげられています.
我々としては「量子情報」が理由にあげられていることに喜びと誇りを感じます.
彼らの業績と現在の量子情報技術との関係について簡単に解説を試みたいと思います.
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そもそも,量子もつれとは?
もともと「量子力学が正しく自然を記述しているか」について論争があり,量子もつれはそこから生まれた概念です.
一言でいうと,二つ以上の粒子が量子力学的な相関を持っている状態のことです.
例えば,二つの粒子の運動量を測ると常に大きさが同じで符号が反対の値が得られ,位置を測るとまた符号が反対の値が得られるような状態です.
このような状態をもつれ合っているといいます.
ただし,このとき片方の粒子の運動量を測り,もう片方の粒子の位置を測ると全く無関係な結果となります.
こういった相関は古典物理学では説明ができず,量子力学特有のものです.
今回授賞対象になった研究ではこのような量子力学的相関の実証とそれを利用した量子テレポーテーションの実験が行われました.
量子力学が正しいことを実験的に証明したことに対する受賞ということができます.
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量子力学の基礎に関する研究がなぜ量子暗号や量子コンピュータに関係する?
量子暗号との関係は上の説明から明らかになります.
離れたところにいる二人(アリスとボブとしましょう)がもつれ合った粒子を一つずつ持っているとします.
二人が運動量あるいは位置といった同じ種類の測定をすると必ず相関した結果が得られるので自分の測定結果だけから相手の測定結果を知ることができます.
ところが,運動量と位置のように違った測定をすると結果は相関しません.
二人は独立にランダムに測定対象を選び,測定が終わった後で同じ測定をした結果だけを取り出せば,アリスとボブの結果が完全に一致するので情報が共有されることになります.
ところが,粒子を共有する途中で盗聴者が粒子を盗んで測定したとします.
測定した粒子を返したとしても粒子の状態は測定によってもつれ合った状態ではなくなるため,アリスとボブの結果には不一致が生まれ,盗聴が発覚することになります.
このような量子もつれを使った量子鍵配送プロトコルは提案者(エカート)の頭文字からE91プロトコルと呼ばれています.
同じく量子もつれを使い,少し簡略化したBBM92(ベネット,ブラッサード,マーミン)プロトコルはよく使われているBB84プロトコルと等価であることが知られています.
また,デバイスに不完全性があっても安全性が保証できるDevice-Independent QKDの基礎ともなっています.
量子コンピュータではもつれ合った状態にある粒子群において一つの粒子を測定すると測定結果によって残った粒子の状態を知ることができることが関係しています.
素朴に量子回路で考えると量子計算の途中で必ずもつれ合った状態ができてしまう,という程度のことしかわからないので,関係性は直接には明確ではありません.
しかし,量子テレポーテーションを使うと,テレポートされた状態が元の状態に量子ゲートをかけた状態となる(要するにテレポーテーションで量子ゲートが実現できる)ことが知られています.
さらに,初めに適切な量子もつれ状態を用意すると,後は1量子ビットの測定と測定結果に応じた1量子ビットゲート操作だけで任意の量子計算ができます(Measurement Based Quantum Computation; 測定型量子計算と呼ばれます).
特に光を用いた量子計算では量子テレポーテーションを基礎にした測定型量子計算が量子コンピュータ実現法の有力な方法と考えられています.
また,量子もつれの共有と制御は量子中継の基本となる技術であり,そこでは量子テレポーテーションの変形である量子もつれのスワッピング(entanglement swapping)が量子インターネットの実現にも必要とされています.
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量子もつれ研究の背景は?
アインシュタイン,ポドルフスキー,ローゼン(EPR)が1935年に発表した”Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality be Considered Complete?”という論文に端を発したとされています.
ボームによるスピン版の方がわかりやすいかもしれませんが,オリジナルバージョンに近い形で説明します.
まず,エネルギー,運動量,角運動量に関する保存則は成り立っているとします.今,一つの粒子がいきなり二つの同一の粒子A,Bに分かれたとします(核分裂のようなことを考えてください).
別れた後は粒子の間で相互作用はないとします.
運動量保存則のため別れた二つの粒子の運動量は大きさが同じで符号が反対のpと-pのはずです.
同時に同じ速さで別れたのである時刻での位置もちょうど反対のxと-xになるはずです.
そこで,片方の粒子Aの運動量を測定するとpが得られます.
もう一方の粒子Bの位置を測定すると-xが得られ,これから直ちにAの位置がxであることになります.
測定で得られたBの情報が瞬時にAに伝わるのは相対論に反しているのでおかしいだろう,ということになります.
情報のやり取りなしに上の結果を得るには,別れた時点でAとBの運動量と位置が確定していると考えなければならない.
しかし,そうすると,量子力学の主張する不確定性原理に反して粒子の運動量と位置が正確に決められているので,やはり量子力学は不完全であるというのが彼らの主張です.
それに対して,測定前に値は確定していない(実在性の破れ),また,粒子の状態はAやBに張り付いているわけではなく(局所性の破れ)二つの粒子の状態をまとめて表すものであるというのが量子力学の立場です.
測定前は運動量がpと-pの関係をみたす可能な全てのpに対応した状態(pは確定していない)の重ね合わせになっている(これは,位置がxと-xの関係をみたす可能な全ての状態の重ね合わせでもあります)と考えます.
Aの運動量を測定して値がpに確定すると,重ね合わせ状態のうちAの運動量がpの状態だけが選ばれます.
運動量保存則から,この状態はBの運動量が-pに確定した状態でもあります. 量子力学によれば,このBの状態で位置を測定すると不確定性原理によって結果は完全にランダムになり,EPRが主張するような結果は得られないことになります.
ここで,測定で変わるのは値でなく状態であるというところが重要で,量子情報技術を成り立たせている所以でもあります.
その後,この議論は1964年にジョン ベルによって数学的に定式化され,実験で測定値の相関が,ある不等式(ベル不等式)を満たすかを調べれば,EPRの主張と量子力学の主張のどちらが正しいか白黒がつけられることが示されました.
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受賞者の研究内容は?
クラウザーはベルの議論を発展させ,現在ベル不等式として広く知られている形式であるCHSH(クラウザー,ホルン,シモニー,ホルト)不等式を提出しました.クラウザーはフリードマンとともにCH74という別の種類のベル不等式を実験で確かめています.
実験はEPRのオリジナルから,粒子として2光子発光する原子からの光子対を使い,運動量と位置の代わりに偏光測定(これは角運動量の保存を使っています)をするなど,実験しやすいように変更されています.
ちなみに,クラウザーはCHSH+フリードマンの唯一の生き残りのはずです.
アスペはCHSH不等式の実証で知られています.検出器の間の距離が短いので光子対が距離÷光速の短い時間内なら相談することができるといった,実験に対する批判に対抗して実験構成を工夫し,改良を繰り返して,最後には概ね誰もが認めざるを得ないような実験結果を得たということです.
私の師匠である長澤信方先生によれば,アスぺがEPRの実験を始めた動機は「自分はアルジェリアで教師をしていたことがあり、それからパリに出たときに何のテーマで研究しようかなあと。そして、このテーマならさすがに誰もやりそうにないと思ったのでねえ・・」ということです(興味のある方は31-神様はさいころを振っている | せいうちくんの備忘録 (notasidea.180r.com)をご覧ください).
ベル不等式の実証は2010年代に入っても続けられ,ほぼ実験上の穴は埋まったと考えてよいと思われます.
ツァイリンガーは量子テレポーテーションの実験で知られています.
これは1993年にベネットらによって提案されたプロトコルによっています.
ある未知の量子状態を量子を伝送することなしに遠隔地に届けることが可能です.
アリスとボブがもつれ合った量子対を共有しているとします.
アリスはこれとは別にある粒子を持っており,その量子状態をボブに送りたいと思っています.
ところが,量子状態を壊さずに伝送できる通信路はなく,古典的な信号を送ることだけが可能とします.
アリスは自分の粒子と共有している粒子対の片割れを測定します.
測定結果は粒子の量子状態に依存します.
この測定によってボブの持っている粒子の状態が変化し,アリスの測定結果によってアリスが持っていた粒子の状態と一定の関係を持つようになります.
そこで,アリスの測定結果を古典通信路でボブに送り,その結果に従ってボブの粒子の状態を変換するとアリスが持っていた粒子の状態が再現されるという筋書きです.
実験的には,アリスの測定が成功するために必要な条件を見出すのが(そしてそれを満足させるのが)結構難しいので提案直後から注目されていたにも関わらず,実験成功までは数年間が空いてしまいました.
実は彼のグループの実験には穴があることは早くから指摘されてきましたが,それでもその先駆的な成果は疑えません.
このほかにも,エンタングルメントスワッピングの実証,3粒子のもつれ状態であるGHZ(グリーンバーガー ホルン ツァイリンガー)状態の提案と実証,C60 分子などマクロな粒子の干渉実験,量子コンピュータ,量子通信等,量子力学の基礎実証と量子情報技術に関する優れた業績をあげており,ウィーン大学を量子情報技術の国際センターの一つとしています.
彼はまた自転車を愛用しています.
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今回のノーベル賞は量子情報技術の基盤につながる内容でしたが,量子情報技術そのものへの授賞ではありませんでした.
今後,量子情報技術に直接寄与した人々が授賞されるものと思います.
その時には日本の研究者の貢献も評価されることが期待されます.
皆様長生きいたしましょう.