会員インタビュー 量子ICTを使ったエコシステムの早期確立を
一般社団法人 量子ICTフォーラム 理事
(株式会社デンソー 経営役員) 加藤 良文
産業や産官学の“狭間”を埋め、
世界標準獲得のみならず、ものづくり産業の浮上装置に
2017年9月のある夕暮れ。デンソーの加藤良文は東京駅近くのレストランの扉を開けた。すぐに元NTTの飯塚久夫(量子ICTフォーラム総務担当理事)と目が合った。傍らには情報通信研究機構(NICT)の佐々木雅英(量子ICTフォーラム技術担当理事)もいた。
飯塚と加藤は、職場も時期も別だが共通の部下をもっていた時期がある。飯塚はその部下を介して加藤に会おうと思っていた。会って意見を聞きたいと思っていた。佐々木も同じだった。
今後日本が量子ICTで世界のデファクトを取っていくためには、どうすればいいのか。
加藤は、大学では理論物理を修め、デンソー入社後は自動運転の制御技術や自動車電子プラットフォームの開発など、次世代技術の土台作りを担ったりした。その一方で、走行安全事業、ボデー機器事業などの現状の個別事業の担当役員の経験もある。さらに自動車王国ドイツに駐在して、現地コンソーシアムのメンバーとしてヨーロッパの標準化活動や産官学連携を間近で見てきて得た知見もあった。
加藤はまさに量子ICTフォーラムが進むべき道標を語ってくれるにふさわしい産業人であった。
2002年、ドイツに渡った加藤には、会社からあるミッションが与えられていた。
日本とドイツは長年のライバルにあったが、加藤は「あるところでドイツに勝てない」と認識していた。その理由を探ることがミッションだった。
「あるところ」とは、標準化だった。日本は技術で勝てても標準化で負けていた。標準化を取れない限り、日本の自動車産業に未来はないと憂慮していたのだ。
そのことは、飯塚と佐々木も十分理解していた。とくに佐々木は量子暗号研究「QKD(Quantum Key Distribution)」に取り組んでおり、日本でその技術が社会に実装できるかは、技術そのものより「スタンダードの取り合い」を制することができるかにかかっているという認識だった。
加藤は深く頷いた。
会う前からベクトルが一致していた3人は、すぐに産官学の連携について語り合いはじめた。
加藤は、ドイツで体験したことや見聞したこと、そしてそれらに少なからずショックを受けたことを語り、ドイツやヨーロッパの産業界が誠実にコンソーシアムを機能させ、また産官学を巧みに連動させていたそのプリンシプルについて請われるままに知見を述べた。
(取材・撮影:加藤俊 / 構成:佐藤さとる)
敵対する企業が、標準化のためにすっと手を組むヨーロッパ
2002年当時、ドイツの自動車産業界にとってライバルは日本でありアメリカであった。一方ドイツ国内ではダイムラーやBMWはライバルであり、世界市場でしのぎを削っている。だが相手が日本やアメリカのメーカーとなれば、すっと手を組む。
互いに自社ブランドでは戦うが、それを支えるための技術では手を組んで標準化することを頻繁にやっていたのだ。
欧米、とりわけヨーロッパは長年にわたって小国が合従連衡を重ねてきた歴史があり、協定や連携の重要性を身にしみてわかっていた土地だった。それは国家同士ではなく、産業界にも浸透していた。
「いくら尖った技術を持っていても、標準化されないと結局普及しないし、ビジネスにならない。尖っていなくても、使いやすくて、エコシステムがきちんと組めて、お金が回る仕組みを作った人が勝つ。中国は大きな市場があるから単独でもいけるだろうが、ヨーロッパの国々はそういうことを議論してまとめていかないと難しい。技術開発と標準化をセットで進めてきた。
だからなるべく早く“この標準はここで作る”と旗を掲げるべきである」。
今度は佐々木と飯塚が頷いた。
加藤は、さらにヨーロッパのスタンダードの取り方の巧みさについて続けた。
「彼らが上手いと思ったのは、標準をつくった上で車を売り、部品を売り、認証ビジネスまで展開している。我々が安全機能を満たしていると言って出かけると『我々がつくったルールなのだから、認証してあげるから持ってきなさい』という商売までやる。さらにそれらに紐づく半導体やソフトウエア、ツールチェーンなどをまとめて売ってくる。だから量子ICTについても、標準を取ることが重要だ――」
加藤は産業人としての視点から、「産業が使いやすいようにするためには、量子コンピュータの開発のみならず、量子コンピュータの専門家でなくても問題の設定ができ、それを解いて、所望の目的を達するための、クラウドサービス、ソフトウエア開発環境、エンジニアリングサービス等を整備していくべき」と指摘した。
「そういうところを含めずに、ある1点の技術だけで突破しようということは難しい」
一通り聞いた佐々木は、加藤に告げた。
「あなたは量子ICTフォーラムに入るべきだ」――。
加藤は、「量子ICTの専門家でもない私が?」と躊躇したが、これを「アカデミアの先端で頑張っておられる佐々木先生からのある意味、命令」と取り、これを受けた。
同時に、運命の数奇さも感じていた。
量子力学の研究を断念してから、再び量子ICTと巡り合う数奇さ
加藤は大学の理学部で一般相対性理論を学び、修士課程では物性理論を研究していた。量子力学を駆使し、多電子系シュレーディンガー方程式を効率的に解くアルゴリズムの開発と、それを用いた物性予測をする研究を進めており、デンソーでその研究をさらに深め、社会実装につなげるつもりだった。
だが与えられたミッションは現代制御理論に基づく新たなコントロールシステムのデザインであった。「話が違う」と思ったが、「物理で飯は食えない」とも割り切っていた。
当時は現代制御理論が登場し自動車への応用が検討され始めて間もない頃であった。自動車の電子化が進み、精密な制御が自動車に求められ始めていた時で、将来は、自動運転が進む可能性を秘めていた。
加藤は高速走行などで適正な距離を保つなど、運転者の安全運転を支援するアダプティブ・クルーズ・コントロールなどに高度な制御を応用する開発などに取り組んだ。
1989年から3年間は、プリンストン大学で先進のコントロールシステムを研究する機会も得ている。2005年にドイツから帰任した後は、全社の技術企画部門の長として、上述のように自動運転の複雑なシステムを適切に動かすための電子プラットフォームのあり方を定義するプロジェクトを立ち上げ、同時に欧州流の機能安全を研究するプロジェクトもつくった。
さらに2011年からはミリ波レーダーやカメラ、AIを導入した「ADAS(Advanced Driver-Assistance Systems)=先進運転支援システム」構築のためのプロジェクトも進め、現在は技術開発センターのセンター長としてデンソーの先行開発全体の指揮を執っている。
材料力学から機械工学、半導体、信号処理、電子工学、AI、ソフトウエア工学など、CASE(Connected、Autonomous、Shared & Services、Electric)と呼ばれる現代の自動車技術のほとんどに関わり、成果を残せたのは大学・大学院時代に理論物理を専攻し、量子力学を研究していたからだ。
「内燃機やモーター、またそれを動かす制御理論、AI、ソフトウエアなどの話を聞いても、だいたい当たりがつく。行列を見ても驚かないし、微分方程式を見ても驚かなかった。その分野の原理原則を覚えれば、展開は見えた。異分野の人間とも話ができた」
「理論物理などでは食えない」と思っていたその理論物理、しかも基本的な数理の素養が役に立った。
その経験は、加藤自身のなかに、日本の学際的なコンソーシアムに不足している要素を浮かび上がらせることになったのである。
産業の狭間(はざま)を埋めるヨーロッパの巧みな仕組み
加藤がドイツでの滞在中、ヨーロッパが業界の標準を取る巧みさは、単に「競合する企業が手を組み標準化することを推進した」歴史の長さにあるだけではないと見ていた。
加藤が唸ったのは、彼らの産業領域や学域の“狭間(はざま)”の埋め方である。領域の狭間を誰かが踏み込んで埋めることができれば、全体が恩恵を受けることがわかった時に、敵対している企業がすっと協力し、先行してトライ&エラーを繰り返し、そこを埋め、実行力のあるルールや標準化に仕立てていく。
日本のコンソーシアムは、こうした狭間の埋め方が弱いと感じていた。より実際的で機能的であることが求められた。ドイツを含めたヨーロッパはこの狭間を企業同士はもちろん、位相の違う産官学でも埋めていた。
「ヨーロッパでは、産官学の間で人が動く。どういうことかというと、大学の先生が企業の研究所の所長になったり、企業の人間が官の研究所にすっと入ったりする。皆それぞれが、違う括りの中のダイナミズムを知っていた。これが日本ではできていない」
ヨーロッパの自動車安全標準の中でEuro NCAP(European New Car Assessment Programme)というものがあるが、加藤のドイツ滞在当時に、チェアマンとして活躍していたのは、ドイツ自動車メーカーでエンジニアの経験があり、その後、政府機関に転職した人物だった。その人物が加藤に言ったことがいまでも耳に残っている。
「自動車メーカーやサプライヤー、半導体ベンダなど広く意見を聞いて、どういう技術がいつ頃実用化できるかを読んで、自動車産業を含む産官学がともに努力すればできそうなギリギリの範囲で標準を設定する。そうすることで、安全技術の普及が加速される。そこを見極めて標準を決め、実現にもっていくのが、腕の見せどころだ」と。
産官学のそれぞれの立場となって、その「際」を見切って落とし所を設定し、一緒になってスタンダードづくりを進める。
「結局ヨーロッパの自動車産業が一番強くなり、その分野の技術を買わざるを得なくなる。ツールを買わざるを得なくなる。最後は認証さえも欧州企業に頼まなければならなくなる」と加藤。
では、そのスタンダードづくりに日本が入れないかというとそうでもないのだ。
苦い経験がある。加藤は、ドイツ赴任時代、デンソーの代表としてドイツのコンソーシアムのメンバーとなったものの、会からキックアウトされたことがあった。欧米の会議スタイルに準じ、しっかり自分の意見を主張しながら、議論に積極的に参加していたと自負していただけにショックだった。やはり日本企業だからか――。
そうではなかった。自社の立ち位置からのポジショントークで、その場に必要な情報を提供していていないとみなされていたのだった。
ドイツのコンソーシアムは、全体利益を考え、情報を提供するのであれば、参加者は国籍を問わない。
何を目標にその団体が生まれ、何を議論するのかを見失っていない限り「こうあるべきだと思う」と堂々と主張し、オープンに議論をすれば、話を受け入れてくれるのである。
天才を生み出す打率を上げるために、
タコツボ化思考人間とフラット思考人間がシナジーを生む場を
一方、ヨーロッパ自動車産業のライバルであるアメリカでは、その狭間を埋める人材が、プロとして育成される仕組みがあり、その差がスタートアップやベンチャーの数やスケール感につながっていると加藤は見ている。
デンソーにはシリコンバレーにオフィスがあり、スタートアップへも投資している。
「そこでは日本同様にタコツボ化した専門家がいて、ある分野では天才的なアイデアを持ち、素晴らしい能力を発揮する。そういった場合、その素晴らしいアイデアを事業化するために必要なアドバイスをする人や、彼らに代わって事業化を行うプロがいる」という。
「ある分野で尖ったことをする専門家の確率は、世界的にそう違わない。ただ日本は『私が考えたアイデアだから、私が社長をやる』という人が多く、アメリカのように『君のアイデアを育てるために、私が社長をやる』という人が少ない。その差がベンチャーの数になっているのでないか」
加藤はこう分析する。
「1人の天才を生み出す打率を上げるためには、タコツボ型の人間とフラットにビジネス化ができる人材がシナジーを生むインターフェースが必要」
加藤は量子ICTフォーラムがそういった場になってほしいと願っている。
スマートモビリティ社会を実現するために、
まず社会の縮図となる工場で量子アニーリングマシンを実証実験
もちろん、デンソーというグローバル企業のR&D部門のトップとして、量子ICTの発展により生み出される実装技術は、押さえておく必要があり、実際に技術を生み出すその当事者でもある。
100年に1度の変革点であるといわれているCASEにおいては、量子コンピュータとその関連技術によってもたらされる果実は非常に大きい。自動車産業だけではなく、社会全体に及ぶのはいうまでもない。
デンソーが担うのはモビリティを軸とした社会全体のスマート化だ。
数年後には普通車やトラック、バス、あるいは完全自動運転を果たした自動車や半自動運転の乗用車、または半自動運転システム以前のマニュアル車、EV、ハイブリッド車、ガソリン車、はたまた国内外の独自のシステムを採用した各メーカー車だけでなく、オートバイや自転車など多種多様なビークルが行き交うことになる。
人間がこれら多様なビークルと共存しながら、最適なモビリティを得ることができるのか。コンピュータ、AIによって再現されたサイバー空間で計画・最適化していく必要がある。いわゆるデジタルツインである。
すでにデンソーは、量子アニーリングマシンでその社会実装のための実証実験を、リアル社会の縮図と言われる工場で進めている。工場での知見を社会全体に確実にスピーディーに展開するためにも、量子ICTの進化は不可欠であり、関わるデバイスやシステムの標準化は未来の形を左右する。
デンソーは、世界ではじめて量子アニーリングを発表した一人、門脇正史を2018年に採用し、その研究を加速している。
スマート社会のみならず、負け続けてきた日本のものづくり産業の
浮力装置として量子ICTフォーラム
とりわけ、移動体の制御という人の命に関わるシステムを手掛けるデンソーにとって、「モビリティの社会では安全が最優先で、事故は防がなければならない」ことは絶対条件である。
しかしながら、複雑で巨大なシステムのなかで、安全に振って止めてしまうべき判断とそのままサービスを継続すべきかの判断を的確にしていきながら、全体の最適化を実現することは、1つの企業だけでやるのは現実的ではない。
量子ICTを使った裾野の広い、かつ分厚いエコシステムを成り立たせる必要がある。
そのためには、量子ICTフォーラムが従来の思考の延長にあるコンソーシアムではなく、産官学とのあらゆる人材や技術、技能、知見を有機的につなぎ、産業の狭間を埋めて機能させていく自由闊達な組織にする必要があると、加藤は考えている。
それは、来るべきモビリティ社会の実現という役割を担った企業人としてのみならず、平成の30年間に輝きを失った感のある日本のものづくり産業の浮力装置となることを確信しているからでもある。
―まず、デンソーとして量子ICTの社会実装をどう考えているのか説明してほしい。
いま自動車産業は100年に1度の変革点であるといわれている。よくいわれているのがCASE=Connected、Autonomous、Shared & Services、Electricだ。
コネクテッド技術では、走っている車の情報を全てクラウドサイドに上げていくことは、技術的には十分可能となっている。現段階でも、特定の車がどこで何をやっているのか分かっていて、シェアカー、普通の車、物流のトラックなど、非常に複雑なモビリティ構造のものを全てクラウドサイドで一元管理できる。その中には、自動運転の車もあれば、電動化の車もあれば、普通の車もある。
これがどんどん発展し、クラウド側にリアルワールドを映した鏡としてのツインができる時代が確実に来る。
いまのところ、現実で起きていることをモニターしている段階だと思うが、量子コンピュータのような非常に大量の計算が瞬時にできるコンピュータが登場すると、社会レベルでのモビリティの最適化が一気に実現できる可能性がある。それはモビリティに限らない。リアルワールドからサイバー側に主導権が移って、サイバー側で計画したことがリアルワールドに移ってくることが、どこかで出るのではないかと思う。SF(サイエンス・フィクション)でも夢物語でもなく、そういうことができるようになってきており、その時のキーデバイスとして量子技術が登場するであろうと思っている。
デンソーは世界にたくさんの工場を持っている。我々は工場が社会の縮図であると捉え、工場の中の自動搬送装置(AGV)をモビリティと見立てて、それを集中管理でき、クラウド側で全ての情報が分かったときに、どこをどのように配置すると最も速く動くかということに、いま、トライしている。
将来的には、社会の完全なデジタルツインがどこかでできて、モビリティサイドの最適化が進むであろう。そのひな型をつくるためにも、工場のような割と分かりやすいところから量子技術を実装していく。最終的には完全デジタルツインの時代に向けて、かなり複雑な多目的最適化問題を解いていく。目的地が随分違うのにもかかわらず、都市としてのスループットを最大にするように、クラウドサイドから個別の車に命令し、ガイダンス、自動運転の車が通るルート、信号との連動、緊急車両を早く通すという特殊な解など、このようなことができると思う。
その結果、余分なエネルギーを使わなくて済み、目的地に早く行くことができる。そういった最適化問題がクラウドサイドで解けるようになるということが、量子ICTが実装される道筋だと思っている。
―実際の社会実装は何年ぐらいを目標にしているのか。
いまの工場の問題は、定式化の工夫などを頑張れば古典的なコンピュータでも解けるレベルだが、もう少し問題が複雑になると量子アニーラでなければ解けなくなるだろう。それは、もう一部実装が始められる段階となっている。本格的に多目的の非常に複雑な変数が解ける時代は、2025~2030年ぐらいになると思う。例えば、いま世の中の全車にコネクテッドビークルの機能が付いたとしても、既存の車と入れ替わるのに10年近くかかるからだ。2030年ぐらいで、都市の中の部分的な交通問題が解け始めて、それがだんだん広がっていくような絵柄ではないかと思う。
―デンソーが量子ICTと関わるようになった経緯は?
もともと我々の中に先端技術研究所がある。その中のチームの1人の研究者が、量子アニーリングは可能性があるということで2015年頃からカナダのD-Wave社とコンタクトを取り始めた。その頃は、量子コンピュータやアニーラがどのようなものか、正直なところ、我々は全く知らなかった。量子アニーリングはこのように動くのだと分かってきた時に、門脇が中途採用でデンソーに入ってきた。
2011~2017年は、いままで自動車産業にいなかったタイプのエンジニアが非常に必要になった時代だった。AI、クラウド側のソフト、通信など、まさにCASEのためのエンジニアが足りず、中途採用をかなり積極的にやった時代がある。特にAIのエンジニアには、「走行データがかなり集まっている。これをどう料理するか。腕に覚えのある方は、ぜひ一緒にやろう」というPRをしていた。多分、門脇も面白いと思って入社したのだと思う。門脇の前職は製薬メーカーだったので、当初私はアニーラの原理を発見した方だとは知らなかった。
まだチームとしてはあまり大きくないが、若手の理論物理のドクターが数名いて、量子アニーリングを中心にハイブリッドのアルゴリズムの開発など、その適用範囲を探している。
―チームは何人くらい?
いまは5名ぐらいだ。
―量子アニーリングの話が出たが、デンソーとしては可能性をどう捉えているのか。
量子アニーラが最も先行しているD-Waveのものを、東北大学とのコンソーシアムや、慶應義塾大学、理化学研究所、東京工業大学などと組みながら進めている。量子ビットの数が、あるロードマップで伸びていくと、大体2025~2030年頃に、これぐらいのビット数になるだろうと想定した時、古典コンピュータで解けないような難しい問題が解けるまでには、まだ時間がかかると思う。門脇のチームは、例えば古典コンピュータのアルゴリズムと量子アニーラのアルゴリズムを組み合わせて、少ない量子ビット数だが、等価的に大きなビット数の問題が解けるようなハイブリッドの仕組みを考えている。量子アニーラだけで解くよりもスピードは下がるが、古典コンピュータだけで解くよりもスピードは上がっている。そのような中間解を探しながら、徐々に実装していこうと思っているので、量子アニーラの実用化はそれなりに早くできると思っている。
―ゲート型についてはどう考えているのか。
当然、ゲート型も注目している。トヨタグループの中では別の研究所で量子ゲートコンピュータの研究を進めている。量子ICT技術者は、自動車産業の中でもものすごく少ないので、いま、1社で全部やることは考えていない。グループ内の研究所と仕事を分け、連携しながら進めていこうと思っている。
―社会実装の前に、途中で期待できるようなスピンオフにはどういったものがあるか。
工場の最適化問題だ。工場にはいろいろな変数があって、社会の縮図と捉えることができる。我々は工場の全ての変数のコントロールができるので、工場の最適化問題をきちんと定式化でき、いまの量子ビット数でアルゴリズムを実装できれば、我々の工場のオペレーションがもっと効率化できると考えられる。
例えば、工場の中でのAGVの動かし方では、20%ぐらいの効率アップのシミュレーション結果がでている。実装まで考えると2~3年以内にはやりたいと思う。
搬送系で最も多いのは電子部品だ。我々の工場は、かなり大きな金物を運んだり、小さい電子部品を運んだり、いろいろなパターンがあるので、最も効果が出るところを探してやろうと思っている。
―実際に越えなければならない障壁には、どういったものがあるか。
実装するためには、ある工場の中にその仕組みを組んで、何分間に1回ずつその問題を定式化して、クラウドサイドに上げて、D-Waveが解いたものを返してもらい、すぐロジックに落として展開するということを、あるタイミングでずっとやることになる。そのような仕組みになるので、まずアルゴリズムの開発、それと量子ビットの数が順調に増えていくことが技術的な課題だ。
それからもう少し下世話な話をすると、それがきちんと工場のオペレーションに役に立つ、いわゆるメリットがあるということを製造部隊が理解して、協力するようにならないといけない。いま、このようにやると確かに人間が配送計画を立てるよりも早くできるということを伝えている。会社の中の問題だが、実際に効果が出ることを確認して、実感してもらうことは大切だと思う。
―いまの御社の量子ビットはどのくらいか。
2,000量子ビットぐらい出ているのだが、全結合で解ける問題は、等価的には64量子ビットぐらいだと聞いている。(2020/9末より5,000量子ビットが利用可能に)
―量子ICTの自動車業界への応用としてMaaS(Mobility as a Service)がある。未来のモビリティ社会はどういうものか。生活がどのように変わるのか。
例えば、車のオーナーが、今日は車に乗ってある場所まで行かないといけないという時に、ナビゲーションが「この車はどこを目指してどのように動くか」ということを、クラウドサイドに上げる。クラウドサイドには、周りの他の情報が全部上がってきているので、「あなたがあの地点まで最も早く行くには、こういうルートを通っていくといい」と提示する。渋滞をゼロにすることは現実的に不可能だが、その中でもなるべく効率的に動く方法が分かるはずだ。あるいは、渋滞に合うので出発をもう少し遅らせたほうがいいということが分かる。コマンドで出すこともできると思う。
MaaSの世界では、例えば、今日名古屋から東京の渋谷のどこそこに行くという計画を打ち込むと、移動の区間と手段のレコメンドがされる。途中で交通事故があると、あなたはここで降りて、こちらに行ったほうが早く着くというようなことが、クラウドサイドから個人に合わせた最適化問題を解いて更新されたレコメンドが下りてくる。しかも、それがワンストップでできる。いちいちどこかに行って時刻表を調べるということはなく、家から交通の経路計画を立て、出発点と終着点を決めておくだけで、どこでどういう移動手段を使ったらいいか、その予約や決済ができるようになる。決済ができるので、キャッシュを持ち歩く必要がない。
そしてそのデータはどんどんクラウドサイドに溜まり、「そろそろあなたはこういうところに行きたいのではないか」というレコメンドも出る。
他の人についても予測できるので、例えばピークシフトといって、皆がそういう行動を取る可能性があれば、ピークをずらすこともできる。
早く動いてくれる方、遅く動いてくれる方に対しては、何らかのインセンティブを付けるやり方がある。時間に余裕がある方はお金をもらったほうがいい、少し安くなったほうがいいということで、社会的な最適化がどんどん進んでいくような合理的な社会ができるのではないかと思う。
他にいろいろな手があると思うが、何かを譲ってくれた方には、何かいいことをしてあげる、その結果として社会全体の目的関数が最適化されるというようなことができるようになるのではないかと思う。
―そういった未来が実現するのは、西暦何年か。
2040年と言っておこう。
―MaaSの中でデンソー役割はどうなるのか。
例えば、仕組みの中で基幹になるのは、モビリティの情報が確実に上に上がることだ。そうすると車載の通信機は絶対に必要だ。車載通信機は、我々がかなり頑張ってやってきた。それはデバイスレベルの話だ。きちんと管理しないと、要らないデータばかりが大量に上がってしまう。データがたくさんになるとキャリアがパンクするし、お金も掛かる。我々は、必要なデータを必要なタイミングで上げるという最適化技術を持っているので、それをやる。それから、クラウドサイドの入り口のところで、いろいろな車のデータが違ったフォーマットで飛んできた場合には、このように統一したほうがいいというノウハウも、我々は持っている。クラウドサイドでも、そういうところは貢献できると思う。
そのデータを使って、量子コンピュータのところで、ある問題を設定しておいて、そこでコードを投げて返ってくると答えを作るというところは、ぜひやっていきたいと思う。その情報が上がった時に、最終的に自動車メーカーやそういうサービスを提供する方にデータが与えられると、それを車などに返すような仕組みは一連でできるようになる。すると、車のところ、通信のところ、クラウドサイドも非常に車に近い側の入り口のところ、最適化の演算のところ、それ以外はいろいろなサービスの方がやると思うので、そのサービスが組み合わせられるように、車側を整備しておくことは、我々がやろうと考えている。
もう一つこの非常に大きな複雑なシステムで、我々がやらなければいけないのは、End to Endで品質保証をするということ。セキュリティーと品質保証である。システム障害が起きた時に、我々がコネクテッドとシェアのところで問題になると思っていることは、ITのベストエフォートで復帰させるという概念と、モビリティの社会で何があっても事故だけは防がなければいけないという考え方がそもそも違っている点だ。
ここは安全側に振って止めてしまわなければ駄目だ、ここはサービスを継続すべきだという判断を、的確に一つひとつしていかなければいけない。多分、我々はそれができると思う。車のことはよく分かっているし、クラウドサイドの勉強もかなりしてきた。IT側がだいたいこういう動きをするということは理解している。サービスの設計、End to Endの品質設計、特に異常時が起きた時に、何をどこまでやったらいいのかについて我々は貢献できるし、ぜひビジネス化していきたいと思う。
―量子ICTフォーラムを機能させるために、いま、必要なことはどういったものだと考えるか。
企業人としては、かなり早期の段階で量子ICTフォーラムに入った。デンソーとしては、世界のどこの企業が勝っても、その世界で生き残りたいと思っているが、日本が強いということは非常にありがたい話だ。そうあってほしいと思う。量子ICTの中で、産官学が自由闊達に議論し、ロードマップやビジョンを共有し、そこへ適切に投資がされるといい。何年までにこういうことができるはずなので、そのためにアカデミアはこういうことをし、官はこういうことをし、産業はこういう道筋で通過していきたいということが議論できれば、我々としてはありがたいと思っている。
―現状はできているのか。
まだ立ち上がったばかりなので、これからだと思っているが、as soon as possibleで取り組むべきだ。量子ICTフォーラムとして、ある目的があり、例えば、産業側にどういうことができるかということをインプットしてほしいと言われると、我々はこう言う、他の参加企業はこう言う、アカデミアとしてはこういう考え方であると、だんだんまとまってくる。
産業からすると、私も含めて量子ICTのことは全然詳しくないので、ああいうところで議論をしていると、だんだん企業側のレベルが揃う。そうすると、例えば総合家電メーカーがここまでやると、モビリティからすると、「あそこと組むとこういうことができるのではないか」、「内容的には、あの大学、あの研究所に頼むと、これをやってもらえそうだ」ということが分かってきて、ネットワークがだんだんできてくると思う。
―日本が量子ICTのデファクトを握っていくためには、産官学が手を取りあわなければいけないという話だが、そこからさらにもう一歩解像度を高めてやらなければならないことは何か。
アーリーアダプターがいて、エコシステムとして量子ICTを使った産業を成立させることだ。いったん成立させておくと、いろいろなところにそれを組むためのソフトウエアのツールキット、チェックをするためのシミュレーター、実装するためのクラウドサービスなど、周りが育ってくる。
例えば、その中にキーの技術が1個あって、それが成り立つための周辺技術が成り立って、パッケージとして持っていけるような格好にするということを、早くやることだと思う。これはスピードの勝負だ。当然、中国、アメリカ、ヨーロッパは、同じことを考えていると思う。
したがって、フル展開ではなく、とにかく成り立ちそうなところから、エコシステムがきちんと回り、複数の産業が組み合わさって合目的的にある問題が解けるようになるとお金が儲かると思う。儲からなければ駄目だと思う。
そしてそれがそのループの中で、きちんと同レベルのシェアができているというところまで組み、それをそのまま輸出する。あるいはツールのところだけ切り出すか。そのつなぎ方やものの考え方が標準化されていくことだ。
標準化する時には、1度産業にアプライしておくと、実は標準にしなければいけないものは、ここにもある、あそこにもある、と分かるはずだ。そこを押さえる。産業上、こちら側のこの技術がないとあれが成り立たないというところが分かれば、そこを押さえに掛かればいい。
―具体的に、日本ではどの領域になるか。
金融などは分からないが、製造業と量子ICTがうまく結び付けば十分に勝てると思う。なぜかというと、工場サイドのテクノロジーは絶対に日本が勝っていると思うからだ。インダストリー4.0は、ドイツがそれに気が付いて、そういうアプリケーションを作る前に早くやってしまうということだ。
またモビリティとスマートシティーは非常に親和性が高い。量子ICTフォーラムもそうなのだが、まだ産業としてどうなるかは分からないけれども、何か来そうな感じがするということを的確に捉えて、そのようなコンソーシアムやフォーラムやディスカッションの場所ができることがある。その中で1度は実装して動かしてみる。うまくいくところと、うまくいかないところは絶対に出てくるが、うまくいかないところが大事である。産業と産業の狭間をどうするかということが一番ポイントだと思う。
コネクテッドビークルのところで申し上げたとおり、機能安全をきちんと守らなければいけない自動車と、サービスを止めるなというITの世界とを統合したときに、相互で矛盾が起きる。これを合理的に解く方法を最初に気が付いた人が標準を取れるし、産業としても重要なことができると思う。
もちろん明確なことは、現段階では不明瞭でどうなるか分からない不確実性があることだ。しかも、特にクロスインダストリーであるITは何でも使えるので、ITを軸にすると、ほとんどの産業との接点でそういう問題が起きると思う。
それ以外にも医療とモビリティ、不動産とモビリティ、教育とモビリティといったところに、想定もしないようなチャンスや、狭間のところで解けていない問題がある。そういったところを実際にやってみて解いてみると、このようなことが分かるのではないかというプロセスを踏むことが、分かりやすい問題の発見に繋がると思う。(取材・撮影:加藤俊 / 構成:佐藤さとる)