会員インタビュー イジングマシン技術と応用、産学連携の鍵とは?

量子ICTフォーラム 量子コンピュータ技術推進委員会 幹事
(慶應義塾大学理工学部物理情報工学科 准教授)
田中 宗

2011年5月に、D-wave Systems社が世界に先駆け量子アニーリングマシンの商用機を発表したことで、量子コンピューティング技術は社会実装の歴史を刻み始めた。その基になる理論を提唱したのが、東京工業大学の西森秀稔。西森が、「量子アニーリング」の理論を発表したのは1998年こと。D-Wave Systemsは、カナダの企業だが日本のメーカーに先んじて、この理論を取り入れ、200億円の開発資金を調達、13年かけて商品化を成し遂げた。さらにGoogleはこのシステムを購入すると、早速、量子アニーリングの研究を開始。2019年には量子ゲート方式の量子コンピュータで量子超越性を達成、通常のスーパーコンピュータでは計算不可能な領域に到達した。実は、この量子ゲート方式の量子コンピュータの基になる超伝導量子ビットのコヒーレンス制御理論も、1999年に東京大学の中村泰信や東京理科大学の蔡兆申(ともに当時NEC)によって、日本が先行して発表していたものだった。

量子技術のイノベーション領域はもちろん、ハードだけでなく、ソフトや量子暗号、量子計測や、量子マテリアルなど多岐にわたる。量子コンピューティングが基礎研究から社会実装ステージに差し掛かった今、世界では国家の威信をかけて国費をつぎ込み、覇権争いが勢いを増している。そんな中、巨額な投資が必要な科学分野では、基礎研究で先んじても、社会実装で後れを取りがちな日本では、産学の総力を挙げての取り組みが必要となっているが、日本特有の産学間の壁が立ちはだかる。学術界と産業界の位相の違いによる、コミュニケーションの分断がイノベーションの機会を奪っているのだ。

だが、希望はある。最近、この壁をするすると通り抜けるかに見える、新しいタイプの研究者が現れた。田中宗その人だ。彼を「風のような科学者」だと評する声もある。田中が手にするのは、イジングマシンという鍵。なぜ、このイジングマシンが、産学間の壁面にある扉を開ける役割を担えるのか。そして、田中はなぜ、自ら接合点となって、日本の先駆的科学者たちと産、官、そして次世代の若者までも繋ぎ合わせることができるのか?これを解明するにはひとつのものに拘らず、幅広な田中の研究スタイルを詳らかにする必要があった。

2021年春、慶應義塾大学矢上キャンパスの新緑の木々の間をくぐり、編集部は田中研究室の扉を叩いた。恐縮する我々を、田中は柔和な笑顔で出迎えてくれた。

(取材・撮影:増山弘之/構成:藤田龍希)

運命の出会い

冒頭で触れた、「量子アニーリング」理論の提唱者、西森は学生時代から理論物理学、中でも特に統計力学の研究に没頭していた。統計力学とは、ミクロな要素が多数集まり相互作用することで、マクロなシステム全体としてどのような性質が発現されるかを考える学問の一つである。西森は、大学院生時代に「西森ライン」と呼ばれる重要な数式を発見するという偉大な研究を成し遂げた。また、情報科学を統計力学の観点で捉えるという斬新な研究を行っていた。その中の一つに、1998年、当時大学院生であった門脇正史とともに提案した「量子アニーリング」の理論がある。量子アニーリングのアニーリングとは、もともと最適化問題のアルゴリズムとして知られているシミュレーテッドアニーリング法(焼きなまし法)のことである。シミュレーテッドアニーリングは温度効果を導入することにより最適解を探索すると理解されるが、量子アニーリングは量子効果を導入することにより最適解を探索する方法である。

東京工業大学の学部生だったころ、田中は、統計力学を学び感動した。統計力学の一つの対象は相転移である。物質は温度や圧力などを変えることにより性質がガラッと変わることを相転移と呼び、例えば、水が水蒸気になったり氷になったりする現象のことである。以降、田中は森羅万象が織り成す美の解明に向け、ますます物理にのめりこむようになる。そこで、西森秀稔の主宰する研究室へと配属され、西森の導きを得て、田中の研究者精神は覚醒した。

先にも述べたとおり西森の専門は理論物理学だった。量子アニーリングももともとは理論物理学的な興味で進めた研究である。しかし今振り返ってみれば、情報技術に関係する研究であった。つまり、西森はある意味専門外、その隣の情報技術の領域で世界の注目を浴びるようになった。科学とイノベーションをつかさどるプロメテウス神はどうも悪戯好きのようだ。

研究者への道

西森との出会いをきっかけに、田中は統計力学に軸足を置き、その応用範囲を広げていく。必ずしも最初から、量子コンピューティングを研究対象の中心に置いてきたわけではない。統計力学を起点にし、様々な出会い、繋がりを経て、結果的に量子アニーリングの研究へと引き込まれていったのだ。

東工大を卒業後、次のフィールドとして東京大学大学院理学系研究科物理学専攻に所属。そこではコンピューターシミュレーションにより統計力学モデルを解析するという研究を行っていた。研究を行っている傍ら、東京工業大学時代の旧友と色々と研究について情報交換をしていた。彼は、田中とは異なる情報工学系の研究を進めており、機械学習について教えてもらうことにした。当時はいまほどには機械学習の知名度は高くなく、彼から機械学習について教わることが田中にとって新鮮なことであった。

友人は企業に就職、一方、田中はポスドクとしての道へ進む。畑は違えども、情報交換をすることで自身の研究をよりアップデートすることができると実感していた田中は、博士課程修了後、2008年春から東京大学物性研究所にて、初めて物性物理学の実験系研究者との共同研究に携わることになる。

量子アニーリングマシンに注目

様々な研究者たちとの共同研究にやりがいを感じるようになった田中は、次のステージへと歩を進める。近畿大学の量子コンピュータ研究センターは、数学・情報・科学など、様々な専門領域に特化した国際色豊かな研究者たちが集う研究室だ。ここでは物理学のみならず、量子コンピューティングに関係するトピックを分野横断的に探究していくこととなった。

田中の探求心は留まることを知らず、このあと東京大学大学院の理学系研究科に戻り、日本学術振興機構特別研究員(PD)として物理化学分野を研究することとなる。所属した大越慎一研究室では、相転移材料といわれる様々な物質群の研究を精力的に進めている。田中は、理論系の研究者ではまれな、実験系の研究室に進み、理論が現実としてどう生きるのかを日々体感する。さらに、京都大学基礎物理学研究所においては、基研特任助教(湯川フェロー)として、量子情報科学と統計力学の重なる分野について研究を行った。

ちょうどその頃、D-Wave Systems社が量子アニーリングマシンを発表したことを耳にする。研究者田中がはじめて所属した研究室の主宰者の西森が提唱した量子アニーリング理論が、ようやく身を結んだ瞬間でもあった。かくして田中は、早稲田大学高等研究所に着任し、量子アニーリングや周辺領域の研究を本格的に始めることとなる。早稲田大学高等研究所では、各メンバーに独立した環境を与えられるため、研究に没頭するだけでなく、産学共同研究をはじめることがスムーズであった。

統計力学という汎用性の高い理論研究を起点に、他分野にも裾野を拡げて取り組んでいった田中だからこそ見える突破口。学術に閉じることなく、産業界、官公庁、そして世界の潮流を俯瞰した上で、量子アニーリング技術の研究を構想した。

「私は、この職において周りの方々から非常に恵まれた機会を多く頂いている。民間企業との共同研究や国プロに参画させて頂いていることによって、理論がカタチへとかわっていく場に居合わせることができる。何より私自身非常に楽しく取り組ませて頂いている」とは田中の弁。相手をリスペクトし、価値を共創していくという彼の姿勢こそ、研究テーマを社会実装していくのに必要な成功要因の一つではないだろうか。

ハードと、ソフト、アプリケーションの一体的運用で、基礎研究から社会実装までを一気通貫

-量子アニーリングマシン等イジングマシンという表現もあるが、2つの関係はどのようなものか?その中で先生の関心分野はどこか。

正確にいうと、量子アニーリングマシンはイジングマシンといわれるものの一つのアプローチ方法だ。これ以外にも、CMOSアニーリングや、デジタルアニーラ、光パルスを用いたイジングマシン、FPGAやGPU実装によるイジングマシンなど、イジングマシンには様々な方式がある。イジングマシンは組合せ最適化問題の高効率化について期待されているため、もう少し一般化すると、いわゆるアクセラレータ技術ということになる。

コンピューティング技術において、当然、ハードウェアを作る研究開発は必須である。さらに、それを動作させるソフトウェアを作る研究開発も必要である。ハードとソフトがあるとコンピュータとして体をなすからだ。しかし、非常に重要な課題は、イジングマシン技術をどこに、どう使うのか?という点だ。そこが、不明確になっているままだと、無用の長物になってしまう。したがって様々なアプリケーションを探索していく必要がある。

私の場合は、ハードウェア・ソフトウェア・アプリケーションどれに対しても興味を持っている。田中の研究をもとに、新しいハードウェア開発やソフトウェア開発につながった、あるいは斬新なアプリケーションが社会実装された、そういった布石になる状況を創出したい。

-社会実装の環境を創るためのポイントは何か?

先述の話をまとめることになるが、少なくとも大学で研究をしている私の立場では、新規ハードウェアを開発する礎となる研究・ソフトウェアアルゴリズム研究・応用アプリケーションの研究をシームレスに行うことを意識していきたい。それにより、イジングマシン技術を実社会に根付かせていくことの一助になりたいと強く考えている。

組合せ最適化問題を解く、イジングマシンの技術検証へ

-そもそも、イジングマシン技術を社会実装することにはどのような意義があるのか

Society5.0の到来に向け、様々なビックデータが収集・蓄積され、あらゆる社会問題の解決に生かそうとする動きが加速化してきている。サーバーのクラウド化が進み膨大かつ、多様な情報を集めて分析することが可能となった。さらに、エッジコンピューティングも進化し、デバイス側の計算能力も高まることで、活用シーンはさらに拡大していくだろう。が、しかし、ビックデータという一つのビックワードが独り歩きする中で、結局それをどう使うのか?という疑問を多く耳にする。

集積された膨大なビックデータを一定の制約条件のもとで解析し、第一次産業から、第三次産業まであらゆるところで生じている課題を解決するための一つの手法として私が期待しているのがイジングマシン技術だ。このイジングマシンによって処理するものが、「組合せ最適化問題」ということになる。つまり膨大な選択肢の中からより良い解を高速高精度に導き出すと期待されるのがイジングマシン技術の強みである。

-具体的に組合せ最適化問題とはどのようなものか?

組合せ最適化問題を象徴するキーワードは「膨大」「制約条件」「ベスト」の3つである。膨大な選択肢から、制約条件を満たし、ベストな選択肢を探索する、という問題が組合せ最適化問題である。例えばシフト計画表を作成する場合、働く人が多ければ多いほど、シフト計画表のパターンは膨大になる。また働く人の働ける曜日や時間帯は決まっている(制約条件)。その中で最も良いシフト計画表はどれか?ということだ。この際、「最も良い」とは何か?は組合せ最適化問題を解こうとする人が考えなければならない。

-イジングマシン技術を社会実装するために必要なプロセスとは?

社会実装といっても、いろいろなレベルがある。一般的には、まず、PoC(Proof of Concept)と呼ばれる、概念検証の段階を経る必要がある。次に、機能試作、機能テストを経て、世の中で、マシンが無意識的に活用される状態を作り、最終的にはそこから収益が生み出されていく段階がある。具体的に何年後にどの程度の経済規模になるかは現段階で安易に予想できることではなく、それについては産業界の方々とともに考えていかなければならないことだが、最終的には企業の収益に寄与しなければサステナブルな社会的機能として存続し得ないだろう。産業界と学術界の有識者が集まる量子ICTフォーラムにおいて、短期的な視点だけでなく長期的な視点での議論が活発化されると良いと考えている。

イジングマシンは、今のところPoCの段階で概念検証を行っている段階と言える。社会課題から、組合せ最適化問題を抽出し、一つ一つ解決策を提示し具体的な事例を作っている状況だ。

-PoC:概念検証のための具体的な取り組みを教えてほしい

先述の通り、まずは社会課題から、組合せ最適化問題を抽出する必要がある。私の方で考えうるイジングマシン技術の適用可能性のあるシーンをまとめ、それをたたき台として、民間企業の方々とともに対話することで社会課題の抽出に取り組んでいる。

DTTF2020 on web(2020年09月23開催)講演資料より

私自身が産業界に身を置いているわけではないので、想定範囲も限定的になってしまうのだが、この表のようにイメージしやすい事例を提示し、事前にイジングマシン技術の適用範囲を想像し、準備をしたうえで産業界の皆様と議論をすることが大切だ。イジングマシン技術の適用については、分野横断的に対話をしていくことで、少しずつ世の中のイジングマシン技術に対する理解が深まっていくだろう。一方で、私自身も、非常に多くの会話の機会を頂いているため、産業分野への理解を深め、提案の精度を高めることができつつある。実際に、議論を重ねる中でPoCをいくつか実現する段階に至っている。

例えば、リクルートコミュニケーションズ社との共同研究がある。アドテクの領域で、いつだれにオンライン広告を表示するのが最適かを探索する枠組みを構築する研究をおこなった。実は、この研究は金融業界における、投資ポートフォリオ最適化理論を応用した数式を構築し実施した。このように、一見異なる業界での取り組みが有用となることがある。日々、分野横断的にコミュニケーションを重ね、過去の知見を融合しながら、柔軟に解決策を検討・連携していく必要があることがわかる事例でもある。

その他にも、東京大学、NIMS(国立研究開発法人物質・材料研究機構)とマテリアルデザインに関する共同研究も行った。物質を生成する際に最適な構造を見出す際にブラックボックス最適化を行う必要があるが、それに対してイジングマシンの技術を応用するという試みである。複雑な構造を有する物質については、すべての構造パターンについて物質シミュレータを用いて物性計算することは事実上不可能である。構造パターンが指数関数的に膨大にあるからだ。しかし、イジングマシンの技術を用いることによって、次にどの構造パターンを調べたら良いかをレコメンドしてくれる。こちらの研究も、量子アニーリングマシンD-Wave 2000Qを用い、よりよい物質構造を発見するために必要な計算時間が圧倒的に短縮された。すでに利用している物性シミュレータもそのまま利用できるため、導入コストは非常に低い。この研究成果は、マテリアルデザイン以外にも、様々な分野に適応できる内容であり、最近、様々な業種の企業からの関心が寄せられている技術である。

更に、モバイルコンピューティング推進コンソーシアム(MCPC)において全9社からなるイジングマシンのPoCの取り組みについても実施し、私は全体監修を務めた。このうち、住友商事における「物流センタにおけるタスクと人員配置の最適化」に関する取り組みは、ここでの取り組みを更に発展させ、内閣府SIP「光・量子を活用したSociety 5.0実現化技術」における研究課題「次世代アクセラレータ基盤に関する研究開発」にて、住友商事やベルメゾンロジスコの協力を得て、フィックスターズ中心に、より現場に即した最適化を行う開発が進められている(詳細は、https://www.youtube.com/watch?v=52UopLRAokk に掲載)。

https://www.mcpc-jp.org/press/pdf/press_20200605.pdf より引用

社会実装へ向けた課題は人材育成、分厚いエコシステムの創造に向けて

-更なる社会実装に向けて、乗り越えるべき課題はどこにあるか?

今は、限られた人材のみが産学連携を推進していて、そこに対して挑戦したい人もなかなか参入できないような閉鎖的な状態となっている。もう少し具体的に言うと、ビジネスサイドにいる人材と研究者や技術者と会話が続かないのである。一日も早く収益化したいという立場と、研究や技術を深めたいという立場のスタンスの違いや、言語、文化、作法の違い等もあり、お互いに壁を感じると立ち往生してしまう。その結果、たまたまご縁が重なって産学連携による共同研究が生まれているというのが実態のように思われる。まず、産業界、学術界それぞれの人材は、後から切り出すのではなく早めに、お互いの譲れないポイントを明らかにしてから、調整をしていく方が良いと感じる。ある程度研究開発が進んだあとで、「こんなはずではなかった」となって、成果を発信できないなどとなると時間のロスが大きくなってしまう。共同の取り組みの目的を明確化させるという、基本的なコミュニケーションの意識改革から進めていく必要性がある。

また、社会実装自体が、皆さんが想像している以上に難しいものであることも否めない。それは、量子コンピューティングが技術的にこれから発展していく領域であるということはもちろん、一般に、基礎研究から社会実装への間には相当のステップが必要だからである。またそれらのステップごとに担当者が異なり、その間には大きなギャップがある場合があるとも聞く。

そこをシームレスにつないでいける人が増えていかないといけない。大学の研究者と近い立場にある人材や、事業をよく知っている人材、開発ができる人材など、ばらばらに存在している人材を繋ぎ、チームとしてプロジェクトを進めていく人材群が必要だ。そして、もっと根本的には、そもそもの産学連携の担い手が不足しているという点も非常に大きな課題である。

-課題解決に向け、現在どのようなことに取り組んでいるのか?

先述の課題を、根本的に解決するためには中長期的な人材育成が一つの打開策となると考えている。したがって、2018年3月から、経済産業省の事業の一環として開始された、情報処理推進機構(IPA)の「未踏ターゲット事業」のアニーリング部門のプロジェクトマネジャーとしても活動している。

未来投資会議(第16回) 配布資料12「AI人材の育成に向けた取組-次世代ヘルスケアシステムの構築に向けた取組」,平成30年5月17日,経済産業省 P2 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai16/siryou12.pdf

このプロジェクトでは、新たな技術領域を主導する先端IT人材を育成するため、今後有望と見込まれる分野を特定(ターゲット)して、ソフトウェア開発人材を育成するという事業だ。第一弾として、アニーリングマシン(イジングマシン)を提供・活用し、次世代コンピュータ向けのソフトウェア研究開発を実施し、発足と同年に第二弾としてゲート式量子コンピュータ部門を設立し未踏ターゲット事業のさらなる拡充がなされた。田中らがプロジェクトマネージャーを務めるアニーリング部門で選抜された人材は、それぞれが定めるテーマを決め、一年間で、イジングマシンを使ってソフトウェアを開発する。採択者は、自らが提案するテーマを推進することで、自身の能力の向上を図ることができるようになっている。

-「未踏ターゲット」プログラムに携わってきてどのようなことが見えてきたのか?

未踏ターゲット事業は発足まだ間もないが、学生、研究者、企業に勤めておられる方など様々な方々が参画しており、非常に多様性に富んでいると言える。社会課題を解決したいという気持ちをもって応募してくれているので、自ら企業や官公庁にアポを取り、積極的にヒアリングをしにいくという頼もしい人材が多い。特に学生の方々の場合は、これまで社会とのつながりが少ないためか、未踏ターゲットを通じて様々な経験が得られているように見える。学生の側から、「こういう課題があるって聞いてきました」と教えてくれるので、我々にとっては課題を抽出することが難しく思えていたことも、その壁を見事に突破していく。専門分野を絞って活動していない若い世代だからこそ、むしろフラットに課題抽出ができるのだということを知ることができたのは大きかった。

また、未踏ターゲット事業を通じて、実際にイジングマシンを提供すると、多くの人はプログラミングに障壁を感じずに、コーディングを進めてくれる。実務から入り、コーディングを進めていく中で、イジングマシンを体感的に理解していく人たちの中には、物理を全く知らない参加者も多い。このように、実際にイジングマシンに触れる機会を設けることで、高そうに見える障壁もどんどん壊していけることが知れたのも大きな収穫だった。

さらに、本事業は人材育成事業であるため、プログラム参加後の将来は多様性に富んでいる。研究者になる道もあれば、民間企業に進むこともできるし、公共的な役割を担っていく場合もこれから出てくるだろう。様々な領域で活躍してもらうことによってゆくゆくは産学官を結ぶエコシステムが形成されていくことができれば嬉しい。柔軟な発想で、課題発見をし、各領域の立場を理解し社会に出ていくため、新しい風向きへと変化をもたらしてくれるのではないかと期待している。

-先生の今後の目標を教えてほしい

イジングマシンは、商用機が世に出て10年くらいの技術であるため、研究者目線で言えば、まだまだコンピュータの歴史としては若い分野だと考える。一方で、10年前に立ち上がった分野なのだからある程度成熟してほしいという外部からの要請もある。

したがって、まずはイジングマシンを使いやすくするということが第一段階の目標である。今は、少々とっつきにくい点があることも否めない。先述の人材育成の取り組みを重ねる中で、意識や技能面での障壁を下げていきたい。例えば、未踏ターゲット事業アニーリング部門にて2020年度に武笠陽介さんという大学院生が取り組んだANCARというソフトウェア(参照:https://ancar.app/)は、障壁を下げるためにもとても良い取り組みであると感じる。さらに、共同研究を行っているリクルートによるPyQUBOやフィックスターズによるFixstars Amplifyなど研究者向け・開発者向けのツールも充実し始めてきている。Fixstars Amplifyについては先日ハッカソンを行った(参照:https://amplify.fixstars.com/hackathon00)。私は審査員として参加したが、非常に多くの素晴らしい作品を目の当たりにした。こうした取り組みをうまく活かし、さらに親しみやすい技術であることを多くの人に伝えていきたい。そのためにも、イジングマシン技術に限らず、自身の活動している分野を越えて挑戦したい人たちの後押しをしていきたい。

そして、ゆくゆくは知らず知らずのうちに、イジングマシンに助けられているというような世界をつくりたい。そのためには、ユースケースである組合せ最適化問題をこの部分に活用できるというようなポイントを絞り込んでいく必要性があり、ますます産学官連携を加速化していかねばならない。私自身も基礎研究に引き続き尽力しながら、様々なアクター同士がつながり、ともに実証実験を進めていくための潤滑油になることができればと考えている。

また、慶應義塾大学理工学部物理情報工学科に2020年4月から着任し、2021年4月から学部4年生や社会人ドクターが配属され、研究室としての活動が始動した。研究室メンバーとともに、よい研究を世に発信していくよう努めていきたい。

-量子ICTフォーラムへの期待を語ってほしい

昨今、量子コンピューティング技術というものに対して分かりやすい情報ばかりが存在しているわけではない。イジングマシンすごいよね、といった過大に期待する報道記事があるかと思えば、一方で、専門分野の研究者に向けた難解な学術論文があって、その間には大きな隔たりがある。大切なのは、なるべく誤解のない情報をどのように様々なバックグラウンドをお持ちの方にお伝えするかということ。より多くの人が、量子コンピューティング技術が、いつからどんな分野に活用されていくのか、自分事として考えるようになることが必要だ。そのためにも、良質な情報をフォーラム内で共有していくような場を創っていっていただきたい。もちろん私も量子コンピュータ技術推進委員会の幹事として協力を惜しまない。

座右の銘は、一期一会
「私自身の能力は非常に限られていますが、様々な出会いがあり、いまの研究開発をはじめとした活動を進めさせていただいておりますので、関わってくださっているすべての方々に感謝しています。様々な方々との出会いを大切にし、そして将来出会う方々と作る未来を楽しみにしています」