会員インタビュー 全精力を傾けて日本の量子鍵配送技術を世界標準に
一般社団法人 量子ICTフォーラム 技術担当理事
(情報通信研究機構 オープンイノベーション推進本部 主管研究員 NICT フェロー) 佐々木 雅英
2019年10月25日。佐々木雅英にとって、その日は生涯忘れることができない日となった。ジュネーブで行われていたITU-T SG13において、佐々木を初めとする日本チームの努力の結晶である量子鍵配送技術の標準化勧告「Y.3800」の審議が10月21日から行われており、その結論が出ることになっていたのだ。
ITU-T SG13は、将来ネットワークの検討を担うグループであり、スライスや機械学習を利用したネットワーク管理、量子鍵配送など、さまざまなネットワーク技術の検討を行っている。
佐々木は数日前からY.3800の最終草案の修正に追われ、睡眠時間を削る生活を続けていた。日付が変わろうとする頃、会合に出席していたNICTの剱吉から佐々木に電話が入った。
「Y.3800が承認されました。日本の提案がほぼそのまま勧告化されます」
佐々木はその瞬間、思わずガッツポーズをとった。
「心から安堵しました。10年に1回あるかないかの安堵でした。心のどこかでもしかしたら、今回は通らないかもと思って、諦めかけていたから」
佐々木がそう語るのも無理はない。Y.3800の草案については、アメリカやヨーロッパなどから強い反対意見が出ており、ギリギリまでその対応に追われていたのだ。Y.3800が勧告されたことをきっかけに、日本の量子鍵配送技術が大きく躍進し、いまでは世界標準の地位を占めるようになった。
2019年10月25日は、日本の量子技術の歴史に残る日となったのだ。佐々木は、長年にわたり日本の量子鍵配送技術の研究・開発を引っ張ってきた中心人物。「彼がいなければ、量子鍵配送技術で日本が世界をリードすることはできなかった」と多くの識者が語る。
日本の量子鍵配送技術のキーマンである佐々木に、日本が量子技術で目指すべき未来、そのために我々は何をすべきなのかを聞いた。取材は、NICTの量子ICT協創センターの拠点として2022年3月に竣工されたばかりの新棟「量子セキュリティ・協創棟」で行った。
(取材:加藤俊 / 構成:石井英男 / 撮影:唐牛航)
<目次>
東京QKDネットワークが転換点となった
量子鍵配送(Quantum Key Distribution、以下QKD)とは、盗聴が不可能な究極の暗号通信といわれる量子暗号通信の鍵となる技術だ。量子鍵配送では、光子1個に暗号鍵1ビットを載せて光ファイバーで伝送を行い、送信側と受信側で同じ鍵を持つようにする。ここで使われるのが、OTP(ワンタイムパッド)と呼ばれる暗号方式。OTPは、送受信するメッセージと同じ長さの鍵を双方で共有し、その鍵を用いてメッセージの暗号化・復号化を行う。1回利用した鍵は廃棄し、また新しい鍵を伝送して暗号化・復号化することによって、永続的に解読が不可能となる仕組みをもつ。
QKDは、この鍵の伝送に使われる技術である。光子が持つ「分割できない」「状態をコピーできない」(観測すると状態が変わる)という性質を利用することで原理的に盗聴が不可能な鍵を送受信者間で共有することが可能となる。
佐々木は、このQKDの開発・実用化に長年にわたり取り組んできた。日本のQKD技術の発展において、大きな転換点となったのが、2010年に佐々木らが中心となり、NICTの産学官連携プロジェクトにより 構築された都市圏のQKDネットワーク「東京QKDネットワーク」である。NICT、NEC、東芝、NTT、学習院大学などの産学官の機関と一部海外機関がそれぞれのQKD装置を相互接続しネットワークを構成している。東京QKDネットワークの成果は目覚ましく、2010年に世界で初めてQKDによる秘匿動画配信(TV会議)の実証実験に成功している。2018年には東芝が300kbpsで45kmの伝送が可能なQKD装置を開発した。これは当時の海外製QKD装置よりも10倍高速で、2倍長距離を実現した画期的な装置であった。また、量子暗号と秘密分散を組み合わせた、新たなキラーアプリとなる「量子セキュアクラウド技術」の原理実証にも成功した。
東京QKDネットワークは、その後ImPACTの「量子セキュアネットワークプロジェクト」として引き継がれ、2018年からは、内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)第2期の「光・量子を活用したSociety5.0実現化技術」において、量子セキュアクラウド技術の開発と社会実装にも活用されている。東京QKDネットワークは、現在もさまざまな実証実験を継続中であり、世界で最も長い運用実績を誇る。
冒頭で、Y.3800の勧告化エピソードを紹介したが、Y.3800の草案作成にあたっても東京QKDネットワークでの研究成果が大きく貢献しているのだ。
そこでまず、東京QKDネットワークの誕生経緯について聞いた。
――東京QKDネットワークは、日本の量子鍵配送技術の進展においてとても大きな役割を果たしている。いつ頃から計画がスタートしたのか。
佐々木 2007年あたりだ。アメリカでは国防総省がやっていて、ヨーロッパでもウィーン市内にQKDネットワークを作るプロジェクトの話が出ていた。それで、日本でもけいはんな地区のNICTの光テストベッド上で97㎞のフィールド伝送試験を行った。2008年には、欧州連合がウィーン市内に都市圏量子暗号ネットワークを構築し、世界にその成果を公開した。そのシンポジウムに招かれ日本の成果も発表し、さらに2010年に東京に最新のQKDネットワークを構築する構想を紹介し連携を呼びかけた。ヨーロッパのある大御所の方から「その東京QKDネットワークとやらにぜひ協力させてくれ」という返事を頂戴した。この名前いいなと思ったのが、命名の由来だ。
QKDネットワークを構築するのは大変だったが、日本の産学官チームとジュネーブやウィーンのチームと連携し2010年に動画の秘匿伝送などの成果発表を行った。この東京QKDネットワークは、いまとなっては量子暗号分野にとって大きい転換点だったと思う。
――Y.3800の勧告化の過程においても、東京QKDネットワークは大きな役割を果たしたのか。
佐々木 東京QKDネットワークができて、本当に量子暗号技術が社会実装されていくことを確信した。日本が世界最高速のQKDネットワークを作り、量子暗号の分野全体の未来の指針が定まったのだ。日本が東京QKDネットワークの研究成果をベースに積極的に寄書を提案して国際標準化の議論をリードした。当然Y.3800の勧告化にも活きている。
量子ICTの時代は日本が世界をリードする立場になりうる
Y.3800の勧告成立は、日本の量子暗号技術が世界に認められた証ともいえる。Y.3800は、ITU-Tの量子暗号分野における初の勧告であり、量子暗号ネットワークの基本構成を定義した概要(Overview)である。続いて、量子暗号ネットワークの要求条件を規定したY.3801 Requirements、量子暗号ネットワークのアーキテクチャを規定したY.3802 Architectureが勧告化されている。これらはすべて東京QKDネットワークで開発された仕様が反映されているのだ。現在のICT分野では、残念ながら日本の電子技術が世界を牽引しているわけではなく、欧米が主導で標準化を行っている。しかし、近い将来やってくる量子ICTの時代は、日本の量子技術が世界をリードする可能性は十分にあると、佐々木氏は熱く語った。
――これから日本はどのように量子ICTに取り組むべきか? 世界における勝ち筋は見えているか。
佐々木 「総合力」だと思っている。先だって量子コンピュータと量子暗号と量子計測・センシングという、三大分野を包含するコンソーシアムとして量子ICTフォーラムが立ち上がった。いま量子ICT全般を包含する新たなプラットフォームを作れる状況に日本は来ている。他国を見ると、それぞれ素晴らしいことはやっている。ただ、全領域を包含して社会に役立てる、変革システムを作れる国は意外とない。そこは日本なのじゃないかと私は思っている。
国際標準化にも象徴されるように、周辺分野を私たちは勉強してきた。量子だけをやっていても社会には浸透していかない。量子を活用するためにはいまある暗号分野、通信、ネットワーク、衛星網といった量子分野以外のことも勉強して知を深めていくことが求められる。さらに他分野の方々と連携していかなければならない。
もちろん、道は険しい。一口に他分野の方との連携といっても、実現は難しい。例えば、既存の暗号分野の方々のなかには、「量子暗号は出口がない」「すべてが置き換わることはない」と指摘する方もいる。私たちも既存の暗号が全部量子暗号に取って代わることは考えていないが、その真意がなかなか伝わらない。分野間の融合はそう簡単ではない。2013年あたりから一生懸命取り組み、国際標準化に一回失敗し、やっと2019年あたりから形が見え始めたという、辛酸を嘗めた10年間だった。でも、その苦労があったからこそ、いま自信をもって「量子技術を社会実装するために必要なことは学んできた」と言えるだけの実力が培われたとも言える。
これから、量子コンピュータのテストベッドを国が整備すれば、若い人たちがそれを使いこなして、いいプログラムを作ってくれるようになる。だから、日本としてインフラを整備していきたい。さまざまな技術を融合する広い知識を持った者、プログラムを書く者、デバイスを作る者が育ってきている。こうした現況から、私は日本は勝てると思っている。
過去の傾向で見れば、ヨーロッパのプロジェクトは長くて5年で一旦終了しチームが解散している。複数の国が集まり多様なステークホルダーを抱える性質上、長期間にわたってプロジェクトの引力を持続させることが難しいのだろう。一方、アメリカは手強い。現代暗号分野との連携など総合力がある。中国は量子暗号に莫大なお金を投じ現代暗号分野との融合も行い始めている。脅威になるかもしれない。このように各国と比較したうえで、日本が量子技術を統合したプラットフォーム作りに先行していると言える。予見するに、2025年ごろ学位を取って業界を牽引する者たちが、絶対出てくる。その段階が勝負だ。日本を無視して、他国が次の世代のICTを作ることはできないという地位になり得ると考えている。
宇宙における量子技術のインフラ整備が将来の目標
――いまのお話とも重なる部分はあると思うが、佐々木先生が描いている将来の夢は?
佐々木 地上におけるインフラは若い人たちと一緒に頑張れば実現できそうだが、宇宙におけるインフラを整備していくには、日本は現段階では企業の体制も含め十分ではない。衛星系と地上系の統合に、まだ10年くらい要するだろう。その道筋が見え、若い人にバトンが渡り始めたら、わが人生をなんとかやりきったと思えるかもしれない。まだまだゴールは遠く長い道のりだ。さらに、宇宙に関しては、中国が遙かに先を行っている。宇宙に量子技術を実装して、グローバルネットワーク化しようと思うなら、よっぽど腰をすえて底上げしていかないと日本の現在地では勝機はないと思う。
――そのために必要なピースは何か?
佐々木 自分たちでごまかしの効かない技術力を有すること。半導体などを自国で作れるようになること。国力を上げることだ。宇宙産業は諸技術の権化みたいなものなのだ。部品を海外から買ってきてそれで済むのだったら話は早いが、衛星環境の中に量子技術を制御できるデバイスを搭載するのは、生半可なことではない。中国は全部自国でできるように体制を整備し始めている。日本が同じことをやるには、まずは若い人に必要な知識を与えて、ソフトウェア及びチップレベルの各技術や次世代デバイスまで自国で開発してシステムを組めるようにならなければならない。
量子分野の優れた人材を育成するためにQuantum Campを始める
――先ほど若い人の力に期待したいとの話があったが、量子分野の人材育成についてはどのように考えているか。
佐々木 実際に将来を担う人材を増やすことが大切だ。優れた人材がいる国が伸びるのだ。いかに優れた人材をつかみ取れるか、そこに尽きると思う。
量子ICTフォーラムが一般社団法人になったのは2019年5月だが、その後私の大きな仕事になったのは人材育成であり、2020年度にNICT Quantum Campを始めた。最初は30名の受講生と2件の探索型研究をした。これは量子ICTフォーラムとは直接は関係ないが、量子人材の育成という観点では同じ意味を持つ。2021年に2年目に入り、50名の受講生と5件の探索型研究が始まった。今年2022年で3年目に入り、2年間のQuantum Campで60名を超えるとても優秀な方々が修了した。今年度はその修了者の中からさらに選抜した7名を、NICTの新しい量子セキュリティ拠点となる建物ができたのと同時にリサーチアシスタントという形で雇用した。
こうした若手にNICTの研究環境という場を与え、先端的な研究開発に取り組んでもらう。若い人たちの可能性は素晴らしい。私が学生の頃をゆうに超えている。私が若手だった頃には、量子を操る本格的な装置はなく、超伝導などの特殊な物理現象でしか、量子技術を使うことはできなかった。それが、IBM Qなどの量子コンピュータが登場し始めたことで周辺環境が大きく変わり始めた。量子暗号装置は2020年に東芝がコンパクトな装置を開発して、実際に使われるようにもなった。
いま量子分野に入ってきて、「研究をやるぞ」と意気込む若手は、こうした装置を使える。これは本当に大きな意味を持っていて、量子技術を使って社会に貢献することをわが身で体感できるのだ。装置を前にすると、それを操るための言語を自然に習得することができる。まさに量子ネイティブが育つ環境が醸成できたと言える。
――若いころから量子技術に親しんだ人材が育成されることが将来的に活きると。
佐々木 私たちは、FORTRANやBASICなどの言語でスーパーコンピュータを順番待ちして使っていた世代だ。一方いまの学生はスーパーコンピュータではなく、本物の量子コンピュータを使って、我々のQuantum Campの中でプログラミングに触れることができる。そうするとQubitの重ね合わせで干渉したり、速く計算できる仕組みを体感することができる。例えば、量子暗号装置も都市圏で光子が瞬く間に行き交い、重ね合わせになり、盗聴によって光子の形が変わって、アラートが鳴るという一連の作用を体感できるのだ。量子暗号装置は光ファイバーで結ばれているが、ぐるぐる巻きの光ファイバーを手に取って持ち上げてみると、20cmほどでアラームが鳴りだす。こうした実機を体験できる環境が醸成されたのだ。これから量子技術を何の違和感もなく使いこなす人たちが育っていくだろう。忙しい身だが、そうした若手と触れ合える時間は何物にも代えがたい。
10のうち9はしんどいが、何物にも代えがたい1のために研究を続けてきた
――これまでにはさまざまな苦労があったと思う。一番苦労したことは何か?
佐々木 日々の9割はしんどいことばかりだ。大概のことはうまくいかない。どうなるかわからない申請書を書いたり、研究とは全く関係ない評価シートを埋めたり、そういうことを延々と続けて、休日などほとんどない生活だ。色々なものを犠牲にしてきた。家族には本当に申し訳ないと思っている。研究に没頭できればよいが、実際には研究以外の膨大な環境構築、予算獲得などに忙殺されてきた。だが、何物にも代えがたい時間が10の中に1あるから、やれるのだろう。
――量子ネイティブの人材を育てるというのも、その代えがたい時間になるのか。
佐々木 若い人たちがここから巣立って、目を輝かせて研究しているさまを見ると報われる。また、何物にも代えがたい時間と問われ想起するのは、いま、この取材を受けている「量子セキュリティ・協創棟」が竣工したときのことだ。下見のために、初めて一人で足を踏み入れたのだが、静寂の中、ここからまた新しい時代が始まっていくのだと予感したのを憶えている。
最初は隠れて量子の研究をしていた
――この道を目指そうと思ったきっかけは何か。
佐々木 振り返ると大学1年生のときだ。化学で量子力学の難しい講義に触れて、最初は理解できなかったが、なぜかワクワクした。高校までの物理とは全く違った世界がそこに広がっていた。あの瞬間に量子に取り憑かれてしまった(笑)。大学1年で出会った量子がずっと自分の人生に関わり続けることになった。
その思い出深い講義は、尼子先生という、退官前の化学の先生の講義だった。非常に難しい講義をあえて入学したばかりの学生にぶつけていた。後で先生に聞いたら、自分の役目は学ぶ意欲を持って入ってきたフレッシュな学生に、ガツンとこんなに難しい世界があるということを示すことだと仰っていた。私の頭もガツンとやられたわけだ。教科書も洋書で、シュレディンガー方程式とか、難しい数学を毎日板書して書き留めるだけで精一杯なのだが、なぜかワクワクが止まらない。いつかこれを自分はものにするのだと。それからずっと量子の世界にいる。
――実際に学問として学んでいる段階と、NICTに入ってから、自分が量子技術の最先端に携わっていくのとでは違いがあったか?
佐々木 私にはこの道一直線で歩めるような器用さはなかった。量子に魅惑されたといっても、大学の学科は天文学科だった。アインシュタインなどの壮大な世界に憧れて、天文を志した。でも、天文学を極める前に量子力学に取り憑かれて。一応天文学で卒業したが、天文学科の4年生の時に俺は量子を極めるぞと決意し、大学院は天文から固体物性に切り換えた。
そこが厳しい研究室で、紆余曲折があり、アカデミアではなく鉄鋼メーカーに入って半導体事業に携わることになった。あのときだけは研究から遠ざかっていた。「俺は何をしているのだろう」と煩悶していた時期だ。シリコンの半導体工場でクリーンウェアを着て、4年間メモリを作っていた。「食うために」は仕方ないと思ったが、やはり研究がしたかった。それで、大学への応募書類を書き始めたが、4年間ずっと当たらなかった。あの時期はつらかった。最終的に拾ってくれたのが、任期付きの条件で、NICTだった。でも、当時量子は隠れてやる研究で、光デバイスの研究で採用してもらった。
――それはいつ頃のことか?
佐々木 1996年かな。光デバイスをやって、夕方や週末になると量子通信の勉強や研究をやって。二足のわらじを履いている状態。企業に入った4年間と、ここに入った最初の4年間は食べるための研究や開発をやりつつ、量子の世界は隠れてやるという毎日だった。いまは隠れてやらなくていいというのは幸せかな(笑)。
――量子暗号通信を自分がやっていこうと思ったのは、いつ頃、どういうきっかけか?
佐々木 それしかなかったというのが実情だ。当時は重ね合わせの制御など基礎的なことをやっていたが、大体やり尽くして、実用化を求められるので、2005年か2006年くらいからは量子暗号をやっていかないとここで居場所がないという状況だった。それで、量子暗号をやりながら、現代暗号も勉強して、気がついたらいまの流れになったのだ。決して最初から掴み取ったわけではない。これも流れなのだろう。御縁があったから、大きな流れで責任ある仕事をやらせてもらえるチャンスがあったというだけの話だ。
――これまでの最大の挫折は?
佐々木 挫折は、やはり企業に入ったときだろう。もう研究の世界に戻れなくなったと思った。それを思うといまはありがたい。研究を隠れてやらなくていいのだから。その当時は、通勤電車の中で電卓を使って小さいノートに書きながら、量子の研究をしていた。こうやって落ち着いて机で隠れずにやっていいというのが、どれだけありがたいことか、いまでも当時を振り返ってそう思う。だから、絶対に諦めないぞという気持ちを持ち続けることは大事だ。
――先生が他のインタビューで、光子の気持ちがわかるようになったと仰っていたのが、印象的だ。光子、量子の世界と長く付き合っていると、本当に光子の立場になってくる。先ほど仰っていた、量子ネイティブの若い方々は、そういった感覚を若いときから身につけているのだろう。
佐々木 その通りだ。さらにその先に行くと思う。大規模な量子現象を操れるようになってきて、また別な感覚を身につけていくのだろう。
量子ICTフォーラムの役割はビジョンとロードマップを提示すること
――量子ICTフォーラム、あるいは技術推進委員会は今後どういった役割を果たしていくべきか。
佐々木 量子ICTフォーラムは、最新の情報を共有して議論する場であり、全分野の情報が集まるので、将来のビジョンを提示することが重要だろう。各分野だけに没入していると見えてこないビジョンがあるので、大きいビジョンを掲げて流れを作っていくことが大事だ。ビジョンは、わかりやすいシンプルな映像であるべきで人間の心理にフィットするものであり、進化の過程として自然なものである必要がある。
生物が進化していくためには、最終的に理にかなっていることが重要で、美しさがないと進化の過程で生き残れない。複雑なものや、突飛なものは残らず、最後は宇宙の真理に通ずる美しさをシステムや技術が持っていないといけない。シンプルに本質を捉えて、明瞭な未来像を提示し、それを繰り返しアップデートしていくことだ。ロードマップを2025年、2030年、2035年と刻んで、非常にシンプルな絵や言葉にして、何回もアップデートしながら示し続けることが大切だと思う。