量子鍵配送技術推進委員会若手インタビュー 量子ICTに必須のセキュリティデバイスHSMの開発に挑む

株式会社村田製作所 石井 宏一良

量子コンピュータ時代の幕開けとともに、従来の公開鍵暗号の安全性への危惧も高まっている。公開鍵暗号である、RSA暗号(素因数分解問題)や楕円曲線暗号(離散対数問題)などは、量子計算機で容易に解かれてしまうからだ。この問題を解決するため、次世代暗号の調査研究に取り組み、HSM=Hardware Security Module(暗号処理を行うハードウェア)の新規開発に挑戦しているのが、株式会社村田製作所 技術・事業開発本部 共通技術基盤センターに在籍する石井宏一良(いしい こういちろう)さんだ。石井さんは量子ICTフォーラムQKD技術推進委員会にも属している。村田製作所は、1944年に京都で創業以来、“Innovator in Electronics®”をスローガンに掲げ、社会基盤を形成する電子部品メーカーとして、グローバル企業へと成長してきた。muRataのロゴマークはよく見るとRが大文字になっている。これにはResearch(研究)への思いが込められているらしい。その精神を体現するのが、HSM研究チームの若きリーダー、石井さんだ。私生活では二人の娘さんを育てる良き父親でもある。そんな石井さんから驚きの発言が…。「自宅もラボになっているんですよ!」。屈託のない笑顔で語る石井さんは間違いなく仕事を楽しんでいる。

(取材・撮影:増山弘之 / 構成:藤田龍希)

小学生時代のゴミ拾いがきっかけで始まった、モノづくり~社会づくりへの歩み

石井さんは、工作が好きで小学五年生の頃には、ものづくり部に所属していたらしい。子供の頃からモノづくりの魅力に魅せられていたのだという。石井少年は、とある出来事がきっかけで、モノづくりの目的を発見した。それは、近所の公園に立ち寄った際のこと。公園には、ゴミが散乱していたため、ふと気になってそれらを拾い集め、家に持ち帰った。すると母は偉いねと褒めてくれた。しかし、「なぜ偉いんだ?」と疑問を持つ。自分自身は、ゴミを拾うことを当たり前だと思っているけど、そうでない人が多いのだという事実を知ったのだ。

そこから、環境問題に興味を持つようになった。ゴミ拾いの題材で「作文コンクール」に投稿して、入選し、表彰されたこともある。その頃の夢は、「二酸化炭素を酸素に変える装置を創る」というものだった。こうして、石井さんは、モノづくりがその先の社会づくりのためにあることに気づいたのだ。

工業高校へ進学、マシニングセンターの動きに感動!

二酸化炭素を酸素に変える装置を創りたいという思いを契機に、中学校へ進学したのちも、徐々にモノづくりへの興味が高まっていった。進路についても、普通科ではなく、工業高校を選択した。そこでは、マシニングセンターやロボットアームをいじりながら、C言語を覚え、徐々に技術習得にのめりこんでいく。単純にプログラムを書くだけではなく、実際にそのプログラムでものをコントロールしていくのが非常に楽しかった。石井さんにとっては、「ボタンをポチっと押すと、ものが動くなんてありえない世界」だった。こうして、さらに高度な技術を学びたいという向上心が生まれていったという。

数学、物理、統計学を探求した大学時代

その後、大学では数学を主軸に、物理や統計学も探求していった。授業がないときは、ほぼ図書館にこもっているほど、勉強に明け暮れる日々。もうこの年代になると、二酸化炭素を酸素に変える装置を創ることがいかに難しいことかには気づいていた。しかし、環境問題の解決に向けて、物理検証をするプロセスや、数学、統計学の数式の美しさにも惹かれていった。

当時、世論的には紙製品は悪だという風潮があったが、石井さんは、むしろ電化製品の方が電気を消費するので環境に悪いと感じていた。したがって、カーボンニュートラルによって、どう環境が変わっていくのか、それは本当に環境にとって良いものなのかというテーマで卒業論文を書くことにした。卒論研究を進めていくうちに、林業界自体の採算性の悪さ、コストバランスの悪さに違和感を持ち、どうしたらこれらを打破することができるのかを模索していった。その結果、諸外国が平地であるのに対して、日本は山の斜面に森林があるため、生産コストがかかっていること、それを解決することができれば環境的にもコスト的にも良いと結論付けた。

技術者としての道へ進むターニングポイント

石井さんは、実際に林業の問題を解決する方法を考えた。そこで、卒業後の進路として、当初、目指していたのは国家公務員だ。たまたま親戚の知り合いが、現役の国家公務員であったため面談がかない、こういう問題の解決をしたい!と相談してみた。それに対して、彼は「残念ながら、それはできないよ」と断言した。「官公庁はあくまで、仕組みづくりを担う立場。現場で社会を変えている皆さんの下支えをするところだ。あなたが実行しようとしていることは素晴らしいけれど、実際にモノづくりを通して、社会を変革したいと思うのであれば、公務員の道に進むべきじゃないと思うよ」と、アドバイスがあった。その会話がターニングポイントとなり、石井さんは、問題解決の実行者たろうと決意したのだ。

エンジニアとしての目覚め

初めに入社した会社では、マイコンの設計・開発に取り組んだ。ICチップを作るなど、夢のような話だと思っていたが、実際の自分の手で作ることができるのかと感動し、さらに没頭していった。作る側もそうだが、使う側の立場となることがさらに楽しく、どう作ってあげたらお客様が喜んでくれるのかという視点で、こんな機能を付けたらどうか?と積極的に社内で提案した。

次の会社はソフトウェアの開発会社だった。ハードの分野に身を置いていた石井さんからすれば、当初はソフトウェアが異世界のものに見えた。しかし、逆にここで何年か経験を積んだらソフトウェアについても知見も得て、さらに飛躍できると感じた。そこでは、有名ゲーム機にWi-Fi®機能を実装したり、OSをゼロから設計したり、組み込みソフトの開発やクラウドシステム自体を創ることも経験した。

村田製作所との出会い

―村田製作所に入社されたきっかけについて教えてください。

実は、初めは入社する気はなかったのです。スカウト会社からの勧めで面談はしてみたものの、最初の二回くらいは断っていました。そのとき、あきらめずに口説いてくださったのが当部の部長で、そこまで言われるなら自分も誠実に向き合おうと思って、真剣に考えるようになっていきました。実際にムラタについて調べていくと、人を大切にする風土が醸成されていて、ここに入ったら良い仕事ができそうだし、挑戦の機会もある会社だということがわかり、興味を持ち始めました。ムラタはセンサを創っているとのことでしたが、センサを創るとはどういうことなのだろうと考えてみると、自分にないものが見えてきました。物理世界から数式を生み出し、そこからデジタル空間におけるノイズ除去や、CPUの設計など、物理空間からデジタル空間にいくまでのプロセスへの知識や技術がすっぽり抜けていたことを自覚しました。この知見を得ることで、さらに高次元のモノづくりへと突き進んでいくことができるのではないかと感じ入社を決めました。

―入社後、具体的にはどのような業務を行っていたのでしょうか?

海外でセンサを開発するプロジェクトに携わりました。センサというものはかなり繊細で、精度を上げるためにはセンサ自体をセンシングする必要があります。地震が多い日本では、どうしてもノイズが発生してしまい、ほぼ実装が不可能でしたが、地震がない国では、センシングが可能でした。プロジェクトは、現地での検証をするために、日本国内外含め、百名ほどのメンバーからなっていました。私は、日本側で、生産プロセスに携わり、プロジェクトの合計5名程度のチームリーダーとしてハンドリングしていました。

国内外の課題解決に向けた研究開発機能を担うシステムデザイン部

―現在は、どのような業務を担当されているのでしょうか?

私が所属している、システムデザイン部は、各部署に頼られる駆け込み寺のような存在となっています。システムというと、クラウドによるサービス構築のようなイメージがあるかも知れませんが、それ以外にも細かいところでいうと、コンデンサ電気信号の制御システムや、センサネットワークもあれば、クラウドとつなげ工程処理状況を可視化するといったシステムまで着手していて、かなり広範に活動しています。したがって、困ったときはシステムデザイン部に、というような流れになっています。

―案件はどのように立ち上がっていくのでしょうか。

基本的には、国内外を問わず顧客接点を持つ部署から上がってきた課題感を基にソリューションを考えていくという形がメインです。逆に、既にある社会課題や、持ち合わせている技術を踏まえ、こういうことができるのではないかという案を組織内で持ち寄り、顧客接点部門に伝えていく流れで案件が立ち上がっていく場合もあります。比率としては7割くらいが前者の持ち寄りのパターンです。ただし、我々のシステムデザイン部はあくまで研究開発をミッションに活動しているので、こちら側からシーズを提案していくという形を増やしていきたいと考えています。

量子暗号分野へ自ら立候補。HSMの開発をターゲットに

―量子暗号分野には、どのようにしてチャレンジすることになったのでしょうか?

元をたどると、高校三年生の卒業旅行中のこと。E=mc²といったアインシュタインの方程式と出会い、旅行そっちのけで数式解明に没頭していました。おかげで卒業旅行の記憶がないのですが…(笑)。ここから光の不思議、量子の不思議に興味を惹かれ、量子暗号分野に興味を持った発端です。

実は、あるとき、私の耳に量子乱数を用いたプロジェクトの話が聞こえてきました。人選も進んでいた最中だったのですが、私自身がやりたい!と手を挙げてみました。それなら、と快く担当させて頂くことができました。

―専門分野ではない量子暗号への挑戦は大変ではなかったでしょうか?

量子暗号分野の基礎である乱数というものが何かすらも全くわからない状態でしたので、とても大変でした。一方で、最初、セキュリティは処理速度を下げる技術であるという否定的な見方もしていましたが、TLS=Transport Layer Security を実装する機会があり、その中に人間を守る重要なミッションやアルゴリズムの美しさを感じ、だんだんと惹かれていきました。

いざ本格的に量子暗号を勉強していくにあたり、まずは、乱数って何?という問いに向き合いました。その後、確率論や、独立性とは何かという話が出てきて、そこに、これまで勉強してきた統計学が絡んできました。結論として、乱数の指す一様という意味、確率はぶれるんだという意味が見えてきて、さらに深入りしていきました。

―そこから、どういった経緯でHSM= Hardware Security Module(暗号処理を行うハードウェア)の新規開発に挑戦することになったのでしょうか?

基礎知識を獲て、改めて量子学・量子力学を勉強しなおしたところ、「こんなに素晴らしい技術が世の中にはあるのか」という感動と、一方で、世の中的にはオーバースペックな技術でもあり、これを活かすにはどうしたら良いだろうと考えるようになりました。量子力学の社会実装に向け、浮き彫りになってくるのはやはりセキュリティの問題です。量子コンピュータ時代が到来すると、従来の公開鍵暗号である、RSA暗号(素因数分解問題)や楕円曲線暗号(離散対数問題)などは、量子計算機で容易に解かれてしまいます。要は、パソコンやタブレット、交通系ICカードなどを使って、情報を送受信する際に、情報をハックされないように暗号を使っているのですが、量子コンピュータを使うと、それらが簡単に解読されてしまうということです。それを受け、現在、PQC= Post-Quantum Cryptography(耐量子計算機暗号)という、新しい暗号の研究開発が行われています。いずれもモノ(ハードやデバイス)からモノへ、情報が移動する際に同じ暗号を使おうという発想です。しかし、物理的なモノ自体をハッキングされてしまったら元も子もありません。そこで、私が目を付けたのがHSM= Hardware Security Module(暗号処理を行うハードウェア)です。HSMとは言わば、鍵を守る金庫の役目をするハードウェアなのです。

HSMについては、これまでICチップやセンサなど物理的なモノを研究開発してきたムラタだからこそ、着手する意義があると考えています。量子コンピュータ時代が到来するタイミングでは、ムラタが開発したHSMが当たり前に組み込まれていて、人々のセキュリティが保護されている状態を創っていきたいと考えています。

9割の失敗から成功の種へ。今後の研究開発と量子ICTフォーラムへの期待

―研究開発を進める上で大切にされている価値観は何でしょうか?

研究開発をしていると、9割は失敗すると考えています。その失敗の山の中から、成功の種が生まれ、ビジネスソリューションへとつながっていきます。研究開発し、プロダクトに仕立て、提供していくというサイクルを繰り返すことによってお客様の課題解決への精度がだんだんと高まっていき、イノベーションが生まれていくという思いで日々活動しています。このような価値観は私だけのものではなく、社内全体での共通の価値観でもあります。いえいえ、企業文化として、沁みついているといった方が正しいかも知れません。muRataのRは、Research(研究)を意味するからこそ、リサーチャーとしての立ち位置にいる私の挑戦も応援してもらっているのだと強く感じます。

―今後の研究開発プロジェクトについて教えてください。

2021年1月から、本格的に研究開発プロジェクトが始動し、一気に15人くらいのチームが編成されました。製品化は、2025年が目標です。PQC=Post-Quantum Cryptography(耐量子計算機暗号)が出るのが2025年頃なので、そこに照準を当てています。現状は市場ができあがっていない状態ですが、これだけ世の変化のスピードが加速化してきているため、たとえ手探り状態だとしても、今のうちから布石を打っておく必要があります。そして、いよいよ市場が開けてきたときには、量子コンピュータに当社の製品が入っているのでセキュリティ対策は万全ですよ!と言えるような状態にもっていきたいです。

―今後、課題があるとすればどのようなことでしょうか?

PQCや量子暗号が世の中に広まっていくときに、私が学習し始めた頃のチンプンカンプンな状態を、お客様が体感することになり、頭の中は?でいっぱいになります。そのときに、参考にすべき本だったり、わかりやすい説明がまとまっている情報リソースがあると良いなと考えています。ユーザーの理解というところのみならず、製品を開発していく社内の人たちに対しても学習コストが高すぎる状態であることは否めないので、実装のサンプルコードを公開したり、その価値、今後のニーズないしは社会変化をまとめたレポートが普及していくなどの動きがあれば、助かります。

―量子ICTフォーラムQKD技術推進委員会ではどのような活動をされていますか?また、参加されてみてどうお感じでしょうか?

HSMのニーズ調査をメインにしています。それとは別に、技術の良さを知っている方々が集って、一緒に会話できることが、ものすごく魅力的だなと感じます。量子力学自体が難しいですし、社内ですら、話すとキョトンとされることが多い中で、心理的障壁がなく、分野ごとに量子力学に携わっている方々と対話でき、さらなる研究開発のヒントが得られています。例えば、量子ICTフォーラムでは、「良い暗号があるんですよ」といえば「そうだね。だったらこういう風に使えるのでは?」と言った意見を頂くことができます。技術の壁がないのは素晴らしいですね。

―活動にあたって何か困っていることはありますか?

自分みたいな新参者が参加しても、それを汲み取ってくださること、セミナーやマッチングもしてくださるのでものすごくありがたいです。困っていることがあるとすれば、上司や社内で理解を得る説明がやはり大変になってくるので、例えば、日銀が出しているようなレポートを刊行物として作成してくださるとありがたいなと思います。新しい時代が来てから解説するのでは遅いので、事前に市場規模はどうなのか?この技術が怪しくないか?みたいな質問に回答ができるような資料を一年おきにでも頂ければありがたいなと思います。例えば、信頼性というところでいえば、論文などで参考文献としてたくさん引用されている文献が最も安心できます。量子ICTフォーラム発の知見がたくさん引用されればベストです。そうすると信頼度が上がりますし、より多くのお客様などに対しても納得してもらいやすくなります。

自宅ラボでも働く!?二子の父親としての素顔

―プライベートではどんな過ごし方をされているのでしょうか。

仕事も自分にとってはほぼ趣味みたいなものなので、明確に意識してその区別があるわけではないです。自宅もラボとなっていて、3Dプリンターなどを置いています。設備を購入するときは、毎回、妻に稟議書を提出しています(笑)。妻に対してはこういうメリットがあり、きっと一年後には給料がこのくらい上がっていると主張しています。将来のポジションを得るのに役立ちますという感じで説得しているのです。最終的に理解してくれる妻には心から感謝しています!

―お子さんもいらっしゃるとお聞きしました。

二人おりまして、どちらも女の子です。上が8歳、下の子が生後数か月でして、妻が子供たちとよく遊んでくれています。子育てをしていく上で、彼女たちが幸せになるように、そのためには彼女たちがどう周囲の人々を幸せにできるのか、ということを学ぶことができるように努めています。例えば、何か娘が棘のある発言をしたときには、「そういう言葉遣いをすると、パパも傷つくよ、周囲の人を幸せにすることによって自分が幸せになるんだよ!」ということを伝えています。ときには3時間くらい話し合うこともあります。結構、技術に向き合う態度にもつながっているのですが、モノづくりをする人間が中途半端にならず誠実に世の中に向き合っていくことができるか?子育てに還ると、親が子供に対し最後まで向き合って面倒をみられるか、大切にしていくことができるのか、が重要だと思っています。こんな風に言うと、妻には、「でもあなたは何もしてないと言われそうですが…」。対話の時間は極力とるようにしています。

―お子さんには、ゆくゆくは理系分野に興味を持ってほしいのでしょうか?

突き詰める人にはなってほしいなと思っています。小さいのでブリーダーや病院の先生になりたいなどといろいろ言っていますが、娘たちの名前にも、それぞれ「和」という字が入っていて、周囲の人々を和やかな気持ちにすることができる人になってほしいなと切に願っています。

(取材・撮影:増山弘之 /構成;藤田龍希)