―近年、量子コンピュータを取り巻く環境は大きく変化している。
最前線で研究を進める研究者は、今の世界をどう見て、未来をどう作り上げていくのか。本連載では、日本で量子コンピュータ技術の研究開発において活躍する若手研究者の声から、量子コンピュータにまつわる様々な視点を届けていく。
第三回は株式会社フィックスターズにて量子アニーリング等イジングマシンのミドルウェア開発を行う、松田佳希(まつだ・よしき)氏だ。松田氏のこれまでの活動や現在取り組む開発、そしてこれからの展望についてインタビューした。
(聞き手:田宮志郎、写真:霜田直人、構成・編集:馬本寛子)
研究の入口はイジングモデル
―学生時代から、量子アニーリングの研究や開発に関わり続けている松田さんが、量子アニーリングに興味を持ったきっかけを教えてください。
アニーリングというより、イジングモデル1の面白さに興味をひかれて、この分野の研究をはじめました。 イジングモデルは非常にシンプルですが、磁石などの磁性体や気体と固体の相転移など、様々なものを表現できます。その適用範囲の広さに面白さを感じ、もっと知りたいと思ったことがきっかけです。
イジングマシンへの興味から西森秀稔先生に話を聞きに行くと、さらに心を掴まれました。情報統計力学の話を聞いた時は、ものすごく刺激的でした。物理のモデルで情報科学の問題を解いていくという部分が非常に魅力的だったからです。情報統計力学に関わる研究をしたいと思い、西森研究室に入ることにしました。
博士課程終了後、東京大学物性研究所で研究を続けていましたが、その頃からコンピュータや情報技術の世界への興味がより深くなりました。この想いから、キャリア的な方向転換をし、フィックスターズへ入社しました。
―入社後は、どのようなことをされていたのですか。
入社してから大きく転換してSSD2のコントローラの研究開発に携わっていました。スマートフォンやタブレット端末が普及していく中で、記憶装置のコストや消費電力の削減と性能向上を両立する技術の研究開発を行っていました。しかし、これがなかなか難しくて…製品開発の楽しさと難しさを勉強させてもらいました。いくつかの困難を乗り越えるうちに徐々に成果が現れ、製品の新機能として組み込んだところでプロジェクトが落ち着きました。
次に取り組むことを探していた2017年頃、偶然、西森先生から「D-Wave Systems社が日本でセミナーをするらしいから、行ってみるといいよ」と連絡が来たのです。そこで、実際にイベントに足を運んでみたのですが、「学生時代にはシミュレーションでしかできなかったことが、実際にハードウェアで行われている!」と、かなり衝撃を受けました。
イベントで触ったD-Wave Systems社のマシンは、2000量子ビットほどのビット数で動いており、そのビット数にも驚きましたし、実行するためのソフトウェアが用意されていることや、ウェブ経由で結果がすぐに出てくることにも心を動かされました。このイベントをきっかけに、改めて量子コンピューティングについてリサーチをはじめたのです。
同時に、フィックスターズの経営層も、量子コンピュータに強い関心を持っていたため、イベントの2ヶ月後には、D-Wave Systems社との協業が決まりました。このような流れから、現在の量子コンピューティングプロジェクトが立ち上がりました。3ヶ月という短い期間で大きく動きましたね(笑)。
ハードウェアの普及には「使いやすい」ソフトウェアが必要
―かなりハイスピードな立ち上がりですね。現在、松田さんが取り組むプロジェクトでは一体どのようなことをされているのでしょうか。
量子コンピューティングプロジェクトの技術的なリーダーを務めています。このプロジェクトは3つの柱で成り立っています。簡単にお話しすると、1つ目は、量子コンピューティングを活用したい企業の開発サポートやコンサルティング、実機による検証。2つ目は、GPUアニーリングマシンとミドルウェア3の開発・提供。3つ目は、NEDO(経済産業省)とSIP(内閣府)などの国家プロジェクトです。これらについては弊社ウェブサイトにまとめられています (https://quantum.fixstars.com/)。
―どのようなミドルウェアを開発しているのでしょうか。
Amplify(アンプリファイ)というミドルウェアを開発しています。現在、開発が進められている量子アニーリングマシンやイジングマシンは、機種によってハードウェアの使用や制約条件が異なります。それらを使用する時には、課題の定式化、論理モデルへの変換、物理モデルへの変換を経なければマシンを実行できません。
そもそも、イジングマシンで扱うことのできる問題形式は非常に限られており、変数として0, 1の2値、しかもそれらの二次式までしか扱えないという特徴があります。また、イジングマシンでは通常組合せ最適化問題に現れる制約条件を直接扱うこともできません。そのため、イジングマシンを使う際にはこれらを踏まえた上で、理論的に同等の効果が得られる形で制約条件を含めて、解きたい最適化問題を上手く定式化・モデル化する必要があるわけです。
また、これらの操作を経た後にも、実際のハードウェアのアーキテクチャに沿って数式を再解釈し実行できる形に変換せねばなりません。しかも、この工程を経てマシンを実行できれば終了するわけではありません。実行された結果が、解きたかった問題に対して、どのような意味を持つのか変換する必要があります。制約条件が満たされているかなどをチェックや結果の補正などを行い、最終的に解きたい課題が求めていた情報に解釈します。
このように、量子アニーリングマシン・イジングマシンを活用する上では、複雑な実行プロセスへの理解やマシンに対する知識が求められます。これでは実際に課題を解く前の段階で諦めてしまう方も多いのです。そこでAmplifyは、論理モデルへの変換や、物理モデルへの変換、マシンへのデータ入力、結果の解釈などの工程を最新の知見に基づいたソフトウェア処理によって自動化します。Amplifyを使用すれば式変換やハードウェアなどの専門知識が不要になります。ユーザーは課題の定式化を行い、それを自然な形でプログラムコードとして入力さえすれば、効率的かつ効果的にマシンを実行できるようになるのです。
―ハードウェア開発にはどのように取り組まれているのでしょうか
新しいマシンを普及させていく時ボトルネックになるのは「誰しもがハードウェアを使いこなせるわけではない」という点だと思っています。そのハードルを下げるために、私たちはOptigan(オプティガン)というイジングマシンの計算を担うGPUベースのアクセラレータを提供しています。
実際にマシンがあったとしても、マシンの扱える問題の規模や表現できるイジングスピン間の結合に制限があるために、量子アニーリングマシンやイジングマシンの活用検討をはじめたものの、非常に単純化された小規模な問題で検証することになり、自分たちの課題が将来的に解けるのかという判断が出来ないのが現状です。そこで、最先端技術を駆使し最大限に高速化された、大規模な問題の実行が可能なアクセラレータを開発しています。これはGPUなどのアクセラレータによるアルゴリズム開発や、長年ソフトウェアの高速化に取り組んできたフィックスターズの得意領域です。これにより、実問題を視野に入れたアプリケーション開発にも対応できます。
量子アニーリングマシンやイジングマシンのアプリケーションの開発には、「問題の定式化」、「プログラムの実装とマシンの実行」、「結果の検証」 といったプロセスを辿ります。最初は問題を単純化した定式化を行い、マシンで実行し定式化が正しく機能しているかをチェックして、徐々に複雑な定式化に取り組んでいきます。アプリケーションの開発を加速させるには、このサイクルの労力を下げることが重要です。先ほどお話ししたAmplifyとOptiganを組み合わせることで、ソフトウェアとハードウェアの両方から考えられる障壁を取り去り、この技術の普及とアプリケーション開発をサポートしていきたいと考えています。
―ミドルウェア・ハードウェア両方の開発に携わる中で、松田さんが感じる課題とは。
そうですね…。課題と言えるかわかりませんが、プレーヤーがまだまだ少ないと感じています。いわゆる研究者だけでなくソフトウェア開発者や事業開発者など多くの人々が参加することで業界が盛り上がり、この技術が広まっていくのではと期待しています。そのためには、社会で役に立つアプリケーションを示していくことが重要ですし、それと同時に、この技術に興味を持ってくれた方がすぐに実践できる環境がないと、プレーヤーが定着しないでしょう。
これまでのコンピュータの歴史を顧みても、使いやすいソフトウェアの提供なしにハードウェアの普及はありません。まだハードウェア・ソフトウェア共に発展途上ですので、双方が互いにフィードバックを行い、研究開発を進めていく必要があるように思います。そうした問題意識のもと、AmplifyとOptiganの開発を進めています。
量子技術の「位置」をつかむ必要がある
―量子技術の発展を見据える中で、今後どのような動きが必要だと思いますか。
量子技術のみならず、古典コンピュータに熟知した技術者・研究者など、多様なバックグラウンドを持つ人々が関わる必要があると思います。社会に役に立つ量子技術の提案には、現在の課題を多面的に認識した上で、既存の技術と差別化や量子技術とのハイブリッド技術の確立が重要になると考えているからです。量子技術そのものが期待されすぎていると感じる局面もあるので、フラットな目線で俯瞰し、新しい技術の一つとして捉えていくことが大事だと思っています。
重ねて、量子技術は現在の情報技術の中でどの立ち位置に置かれるのかを注視する必要も感じています。将来、身近な情報技術のひとつとして量子技術が普及するためには、物理の研究者だけではなく、計算機科学の専門家や、新たな情報技術を活用したサービスの事業者など、多くの専門家が関心を持ち、一緒に技術を作り上げていかねばならないでしょう。将来的には、それほど存在感を示す技術になるとも思いますし、そうした専門家が参入したくなるよう、これからも魅力を伝えていきたいです。
(聞き手:田宮志郎、写真:霜田直人、構成・編集:馬本寛子)
聞き手
田宮 志郎(たみや・しろう)
東京大学 工学系研究科物理工学専攻に所属。現在、「量子計算機の有効活用へ向けたアルゴリズムの構築およびアプリケーション開発」の研究に取り組む。
- イジングモデル(イジング模型): 互いに相互作用を及ぼすスピンのような二状態をとる粒子が、格子点に配置された物理系。統計力学で扱われる物理系で、結晶を構成する原子のスピンの向きや相転移を考える簡易的なモデルとして用いられる。
- SSD/ Solid State Drive(ソリッドステートドライブ):データやプログラムなどを書き込んだり読み出したりする記憶装置
- ミドルウェア:コンピュータの基本的な制御を行うオペレーティングシステム(O S )と、業務処理を行うアプリケーションソフトウェアの中間に位置するソフトウェア。O Sとアプリケーションの機能を補佐する。
コメント
微力ながら量子技術の理解・発展の一助になればと思います。