量子科学の研究から教育へ
——超スマート社会卓越教育院とは、どのような役割を担っているのでしょうか?
現在の社会は、工学が生み出した技術の貢献によって発展してきた側面も大きいですが、一方で、今まで想像できなかった数多くの新しい社会課題も生まれて来ました。これらを解決すべく、人間中心に新技術を含めて再構成していく、超スマート社会(Society 5.0)の実現が求められています。そのためには、最新の情報技術と現実世界の各種技術の統合に留まらず、量子科学や人工知能などの最先端の科学技術の融合が必須です。とりわけ量子科学は、既存技術の枠を超えるような、社会貢献への大きなポテンシャルを持っています。この未知の技術を社会に還元していくためには、アカデミアに閉じず、産業界や官との連携も非常に重要です。このため、本教育院では、量子科学に基づく超スマート社会の実現に向けて、産官学の各セクターを牽引できるリーダーシップ力のある知のプロフェッショナルを育成することをミッションとしています。
——量子科学との出会いはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
子供のころから、理数系の分野に興味を持っていました。ものごとの成り立ちを理解することで、いろんなことが分かってくるのが面白いなと思ったからです。
ただ、高校までで習う物理では、100年前の、すでに確立された内容しか学びません。たとえば量子論では、私たちの時代にはボーアの原子モデルなどが導入程度に扱われていました。その先の内容が気になって、学校の勉強以外に、科学雑誌『Newton』などを読んでいました。
科学雑誌には、最近こんな説が出てきて、まだ解決していませんという、不確定ではありますが、未来への可能性を示す情報が載っていました。こういった知識を得ながら、大学で習うらしい、相対論、量子力学といった学問に期待を膨らませていました。
大学に入ると、東大では教養学部から、量子論の一部科目を選択することができます。そのとき量子力学が、未知の世界を説明するための方便ではなく、ものごとの成り立ちに対して本質的に違う世界像を提示していると知りました。今まで、ものごとは局所的に閉じていて、観測しようがしまいが実体がある(局所実在論)のだという古典物理の常識にとらわれていたものが、実はそうじゃない。いかに直感に反することでも、すでに実験的に証明されている、というこの量子力学の帰結を学んで、本格的に興味を持つようになりました。
進振り(進学選択)では、迷わず物工(物理工学科)を選択しました。物工では、まずはじめに、量子論で様々な事象が説明できるということを勉強します。そこから次第に、重ね合わせや量子もつれと言った概念が、理論説明の道具ではなくて、最先端の量子技術においては、積極的に活用するべきものであることを、具体的な例とともに学びました。
いかに量子もつれや重ね合わせが自分の直感に反していようとも、それは制御し、さまざまに活用できる対象である。であるならば、わけのわからないものだからこそ、意のままに操りたいという欲求が高まりました。もともと、そういうタイプの実験研究がしたかったですし、何かに役立てることで、理解のステージが上がるように思えたからです。
実際、量子技術を使うと新しい世界が開けるという予感や、機運が高まってきています。そんな中で、量子コンピュータは、量子重ね合わせや、量子もつれを実際に役立てるものの究極形に見えました。それを実現したいと研究者への道を選択したのです。
半導体中のスピンに注目
——研究分野や研究室はどのように選ばれたのでしょうか?
当時、量子技術を対象にした研究室がいくつかありましたが、最終的に実装して、デバイスにしたいと思ったとき、半導体で実現できることが、非常に重要な鍵になるだろうと考えました。そこで、半導体中の量子現象を研究していた、樽茶清悟教授の研究室の扉を叩いたわけです。
——なぜ半導体に注目されたのでしょうか
私たちの身近にあるデバイスのほとんどは、半導体で動いています。その半導体素子の代表例となるのが、トランジスタです。最新のスマホだと、100億個ものトランジスタが集積したチップが中に入っています。
このような半導体を利用することがなぜ良いかというと、最終的な量子コンピュータの社会実装に有利だろうという判断からです。究極的な量子コンピュータには、量子ビットは何百万個あるいは何億個必要だと言われています。実際にそれだけの数のものを集めて制御するとなったとき、当時の私にはやはり、半導体トランジスタを使うのがもっともイメージしやすかった。
もう一つは、普段慣れ親しんだ古典的常識の世界と、量子的な世界は、いつから切り替わるか、その境目はどこなんだろう?ということにも興味がありました。
我々が普段使っているトランジスタは、古典的に振る舞うように設計されています。これを量子デバイスにするには、色々と工夫が必要です。たとえば、一度に沢山の電子を流して動作するのではなく、ひとつひとつの電子の動きを制御し、その量子状態を使うことになります。このようなデバイスは、量子ドットとも呼ばれます。
私が研究を開始した当初の半導体量子ドットは、様々な工夫を行って、どうにか量子操作ができるかどうかという状態でした。しかし逆に、初めから量子的に振る舞うことが自明な特殊な状態から始めるより、古典と量子の境目を意識せざるを得ないところに惹かれました。
——樽茶研とそれ以降に亘ってどのような研究をされていたのでしょうか?
大学院生のころは、ガリウム砒素という化合物半導体の量子ビットに取り組んでいました。電気的にクリーンな試料の作製技術が確立していて、ものづくりとして作りやすいのです。しかし、磁気的な雑音のせいで、スピンが量子的に振る舞う時間、コヒーレンス時間が極めて短い。すぐに古典的な状態に落ち着いてしまいます。そこで、量子ドット内の、一つの電子で動くトランジスタ内で、どうやって電子スピンに電場や磁場をかけて速く動かすか。速く動かすことでいかに上手く量子操作を行えるか。このように、単一の電子スピンを高速に操作する方法を確立するための実験をしていました。
この研究が一段落した後、理化学研究所への就職が決まりました。その頃には、シリコンでも安定な量子ドットが作れるようになってきていました。ガリウム砒素の研究では限られたコヒーレンス時間の中で、いかにスピンを速く回すかが課題でしたが、シリコンを使えばもともとコヒーレンス時間が長いものが作れます。
特に純度の高い28シリコンを使うと、雑音のもとになる半導体中の核スピンをほとんど無くすことができます。慶應義塾大学の伊藤公平教授がそのような同位体制御されたシリコン基板を提供して下さることになり、理想の量子ドットを作製する準備が整いました。理化学研究所では、高速操作方法と同位体制御の2つを組み合わせて、超高精度なシリコン量子ビットの研究を推進することができました。
さらに、研究視野を広げるべく、次はシリコンによる量子コンピューティングの世界的な拠点であるニューサウスウェールズ大学(UNSW)に移籍しました。電子は、スピンに加えてもちろん電荷の自由度を持っていて、このおかげで簡単に動かせる。そこで、重ね合わせのままのスピンの状態を保ったまま、シリコンの中を移動させるという面白いアイデアがあって、でもなかなか実験ではうまくいっていなかった。これを実証すべくDzurak教授のもとでは、電子スピンをまわすのではなく、量子状態を保ったまま、チップのなかを移動させるという研究を行いました。
——そこから、東工大に着任されました
自分で、研究をやりながらも、量子人材育成の重要性も意識するようになり、もう少し教育にも関わりたいと、考えるようになりました。おかげ様で、とても恵まれたポスドク時代を過ごしたと感じていますが、研究が進展するにしたがって、みなで協力して研究を進めることがますます重要になってきました。量子技術の応用研究は、産業界との方々との協働も必要な中で、自分が責任のある立場での研究を目指しつつ、研究の大きな方向性を決めたり、研究を組織したりするには一定の規模が必要となってきます。加えて、これから伸びていく分野であるから、後の世代の人材育成もしっかりやっていきたい。
そんなときに、当院で特任准教授の公募があり、応募することにしたのです。
量子コンピュータが抱える課題と、シリコン素子の可能性
——いよいよ詳細な研究内容について伺います。シリコン量子ビットの研究へ取り組まれた背景にある問題意識はどのようなものだったのでしょうか?
量子コンピュータの社会実装に向けて、もっとも大きな問題は、計算に必要な量子状態を維持するのが困難で、どうしてもノイズが発生し、誤りがでてしまうことです。最近の量子コンピュータでは、量子ビットの質も量も改善して、量子超越性を達成し、古典コンピュータと本質的に違うことが示されるまでになりました。反面、誤りがどんどん蓄積してしまって、その回復ができないという課題がある。これが、誤り耐性量子コンピュータが期待されている背景でもあります。
量子コンピュータで計算するとき、限定的な例題を解くのではなく、より実社会の複雑な課題解決につながる解を求める計算をしたい、というときに、例えば50個量子ビットがあったとします。これがすべて誤りなく演算操作できればよいのですが、現状では一回あたり1%程度の誤りが発生します。ということは、この50個が重ね合わせになっているので、積み重なると、計算結果はすぐにほとんど間違いになってしまうのです。この誤りを修正できるコンピュータをどう作るかというのが論点になります。
ただ、これが実用化できるまでには相当の時間がかかると予想されています。そこで、誤りがあってもその状態で使えないかという観点でも、研究が進められています。現実的なノイズや誤りのある、NISQマシンであっても、応用できる領域はあるだろう。ハードウェアに制限のある状況でも、何かに使えないか、面白い応用方法はないかと考える研究です。
それでもやはり究極的な量子コンピュータは、誤りに耐性を持たせたものになると期待されています。そもそも、誤りを直すのはなぜ難しいかというと、古典情報であれば、冗長化して、単純な反復を用いて0をエンコードするとき、ほとんどが0,0,0…と出るのに、その中に1が混ざっていたら、1が間違いなので、0に訂正するといったことができるわけです。しかしながら、量子情報の場合、観測したらその影響で量子状態が崩れるし、原理的に複製もできない。冗長化、符号化に、これを回避するための工夫が必要で、莫大なリソースがかかるということなのです。計算に使うビットに対して、誤り訂正のためのビットが多く必要になってしまう。
このような事情から、誤り率が0.1%~1%を境にして、誤り訂正ができるか、できないかが分かれてきます。これを下回ったら、誤り耐性量子コンピュータができる可能性があります。さらに、訂正をするのに必要な大量の余分なビットも含めて、全部で10の6乗くらいのビット数は必要になると言われています。
量子ビットの研究は着実に進展してきていて、たとえば超伝導量子ビットやイオントラップ、スピン、光など、さまざまな量子ビットについて理解が進み、色々とできそうなことが増えてきました。そういった中で、今後、ビット数を大幅に増やすにはどうしたら良いか、多くのチャレンジがなされています。
このように、誤りに耐えうる理想の量子コンピュータを作るには、いろいろな条件を同時に満たさなくてはいけません。まだ数十年もかかる可能性がある、息の長い研究になると思っています。ノイズが極力少なく、コヒーレンスが長く保て、極めて高い精度で制御が可能な量子ビット。これを何らかの回路で個別に制御しつつも、大規模に集積化できないか。
これに対する答えは今まさに世界中で模索されているところですが、私たちは有効な解決方法として、回路集積化するときにシリコンを使うのが、もっとも自然なアプローチだと考えているわけです。トランジスタであれば100億個がチップに載るところまできているので、その技術の援用が期待できる。なのでシリコンを使って、量子ビットを作りたいわけです。
——シリコンを半導体量子ビットに使うアプローチはどのように進んでいますか?
トランジスタは半導体でもっともよく使われているものですが、さらに実験では電子1個だけの、量子ドットと呼ばれる量子デバイスを作って動かしています。ここでは、量子ビットの性能の目安として、下図のようなシェブロンパターンがどれだけきれいに見えるかに着目してみましょう。
上の図において、縦軸はスピンを操作している時間、横軸は、スピン共鳴条件からのオフセット、ずれになっています。真ん中では、周波数がぴたりと合っているので、スピンが真っすぐまわる。そこから外れた部分では周波数が微妙に合っていないので、斜めにまわる。斜めの状態で、長いあいだスピンをきれいに回転させるのは大変です。半導体材料をいろいろと変えたとき、今のところこのパターンが最もきれいに出るのが28シリコンです。これによって制御性がどれくらい高いか、ある程度分かります。
これは、電子スピンの感じる磁場を設計する高速操作技術と、28シリコンの長いコヒーレンス時間の組み合わせで実現されています。コヒーレンス時間の違いは、核スピンのもたらす磁場ノイズが原因で、これを説明すると次のような図になります。
量子ドット中の単一の電子は、数10万個~100万個の原子核にわたって存在しています。たくさんの原子に電子の存在確率、波動関数が広がっていて、それら原子の原子核は核スピンとよばれるスピン自由度をもっているという状態です。この核スピンが電子スピンのコヒーレンス時間に影響を及ぼします。
ガリウム砒素半導体では、100万個ある原子のすべてが核スピンを持っていて、それぞれがいろいろな向きを向くため、電子スピンが都度、影響を受けることになります。これが、28シリコンの純度が高い同位体制御されたシリコンだと、核スピンを持つ原子の割合を0.1%以下に減らせるのです。これによってコヒーレンス時間が10nsから10μsに大幅に(3桁)改善します。
量子輸送を活用した量子×古典回路のハイブリッド化と将来への展望
——現在の研究は?
このシリコン量子ドットは、集積回路技術との親和性の観点から有力視されているわけですが、誤りに耐性をもつ量子コンピュータを目指す上で、量子ビットに要求される長いコヒーレンス時間、高い操作精度、読み出しの量子非破壊性などをさらに、追究していく必要があります。
そこで、今の研究では、シリコン量子ドット中の電子スピンが移動する際に、スピンコヒーレンスが喪失する仕組みを解明し、スピンの量子状態がよく保存されるための量子輸送条件を明らかにする。これによって、スピン量子ビットを量子状態ごと正確に量子ドット間で移動させる基盤技術を確立することを目指しています。
このような量子輸送技術があれば、量子ビットのレイアウト自由度が増えることになります。古典の制御回路を組み合わせた集積化が、格段にやりやすくなると期待しています。上図左のように、量子ビットだけが真ん中に集まっているものを、外から個別に制御するのは大変ですが、たとえば上図右のように古典回路を配置できると、中から制御できるようになるわけです。
——これができれば量子シリコン半導体はチップに載って、持ち運びできる機器に使えるようになりますか?
それは実現したとしても相当先の話ですね(笑)。現時点では、量子コンピュータはデータセンターにあって、クラウドで、皆がそこにアクセスして使う状態を想定しています。
ただ、いくらデータセンターにあるからと言って、どれだけ大きくても構わないということはなくて、製造技術的には、心臓部分の大きさはウェハーの面積で制約されます。また、制御に必要な回路の発熱があるので、ある程度高温環境で使えるようにするという課題があります。現在は、10mK~100mKの希釈冷凍機温度領域が主流ですが、スピン量子ビットの動作温度は、少なくとも1Kまでは上げられる見込みがあります。これも重要な研究テーマになります。
こんな話をすると、理想の量子コンピュータができるのは、まだまだ先と思われるかもしれません。しかし、短期的な応用先が見つかれば、社会実装が早くなる可能性は大いにあります。やはり、実機を作っていくことがすごく重要で、そうやって応用を考える機会を提供したり、可能性を示したりしていくことが必須だと考えています。
——目指すゴールや夢は?
シリコンテクノロジーを援用したシリコン量子デバイスの集積化の道筋をたてて、こうしたら理想の量子コンピュータができるという基盤技術を確立したい。そして、実際に、シリコンの量子コンピュータを作っていきたいです。
そのために、私たちのように、元々量子をやっている物理屋、実験屋だけでなく、計算機アーキテクチャの研究者、古典の回路やシステムに取り組んでいる方々などに参入していただけるよう、産学問わず大きな広がりを作っていきたい。多くの方々に興味を持っていただけると嬉しいです。
ことシリコン量子系においては、古典の技術を生かせるところが、かなりあります。そういう技術を持っている方々に仲間に入っていただけると有難い。夢の技術を実現するには、大きなコミュニティが必要です。量子技術のインパクト、可能性は、まだうまく伝わっているとは言えません。今、世界的に量子情報技術は大変盛り上がってきているし、日本でも、量子の面白さを、自身の研究と人材育成で、より一層盛り上げていけたらと思います。