量子コンピュータ技術推進委員会若手インタビュー ビジネス応用で見るデジタルマーケティングと量子アニーリングの共鳴

株式会社リクルート
※現在、Turing株式会社勤務
棚橋 耕太郎

―近年、量子コンピュータを取り巻く環境は大きく変化している。

最前線で研究を進める研究者は、今の世界をどう見て、未来をどう作り上げていくのか。本連載では、日本で量子コンピュータ技術の研究開発において活躍する若手研究者の声から、量子コンピュータにまつわる様々な視点を届けていく。

量子アニーリング技術は、最適化問題の解法を高速化する可能性を持つ技術であり、さまざまなビジネス分野での応用が期待されている。しかし、実際のビジネスへの応用には、ハードウェアの信頼性向上や汎用性の拡充だけでなく、それぞれの産業分野に特有の課題克服も求められる。

今回お話を伺ったのは、株式会社リクルート データ推進室の棚橋耕太郎さん。量子アニーリング技術を用いてウェブサイトのレコメンデーション最適化やテレビCMの配置最適化に取り組み、デジタルマーケティングにおけるビジネス応用の成功事例を作り上げてきた、量子アニーリング研究のトップランナーだ。これまでの事例をもとに、量子技術のビジネス応用について掘り下げる。

(聞き手・構成・撮影:小泉真治)

社会問題解決の可能性に惹かれ量子の分野へ

――量子アニーリングに関心を持った経緯を教えていただけますか?

大学時代は高分子化学専攻で、主に統計力学を用いて物質の性質を解明する研究をしており、特にゲルや柔らかい物質の力学的な物性に興味を持っていました。高分子を解析するためにはミクロなモデルが必要で、その基礎となるのが統計力学です。具体的には、高分子の性質を解明する際にイジングモデルという物理モデルを使って解析を行っていました。

これは量子アニーリングの基礎となる物理モデルと同じものであり、物質の性質を理解する手段として使われる物理モデルが量子の分野でも使われていることは、非常に興味深いものでした。

その頃は、統計力学について調べる機会が多く、西森秀稔先生や大関真之先生のウェブサイトを訪れたり、宮下精二先生の『量子スピン系』という著書を読んだりするうちに、量子アニーリングへの関心がますます高まっていきました。『量子スピン系』には量子モンテカルロ法のトピックがあり、量子アニーリングに関連する内容が書いてありました。読み込むうちに、物質の性質を解析する物理モデルが、社会的な問題を解くソルバーへとつながっていく可能性に惹かれました。

――その後、リクルートに入社し、量子アニーリングの社会実装へのチャレンジが始まったということですね。

はい。2015年に株式会社リクルートへ入社した当時、すでに量子アニーリングに興味を持っている先輩や同僚がいて、彼らはその可能性を探っていました。私の研究開発におけるターニングポイントになったのは、入社1年目からスタートした、量子アニーリング研究の第一人者である田中宗先生との共同研究です。

田中先生は、今ほど量子アニーリングが認知されていない早い段階から、量子アニーリングを用いた機械学習に関係する研究を国際会議やジャーナル論文で発表されており、私も拝読していました。そんなあるとき、先輩の紹介で社外の勉強会に参加することになり、半ば偶然にも田中先生にお会いできました。これが共同研究のきっかけになり、後に量子アニーリングマシンを使った研究へと展開していくわけです。

当初の量子アニーリングマシンはまだ小規模でしたが、その後の進化によって問題を大規模に解析できるようになったことで、ビジネスへの応用の可能性が広がりました。2016年5月には、カナダのD-Wave Systems社から当時社長のRobert Bo Ewald氏らを招いて公開セミナーを開催。国内での量子アニーリングマシンの認知に先鞭をつけるイベントになっただけでなく、社内的にも量子アニーリング活用の可能性について理解が広がる契機となり、社会実装に向けたプロジェクトにつながっていきました。

量子アニーリング活用のハードルを下げた「PyQUBO」

――量子アニーリングのビジネス応用について、具体的な事例を教えてください。

デジタルマーケティングでのアニーリングマシンの活用例の一つに、旅行予約サイトにおける検索結果の表示順序の最適化があります。宿泊施設を検索すると、これまでは人気順に宿泊施設がレコメンデーションされていました。すると、ビジネスホテルばかりが上部に表示されたり、反対に高級ホテルばかりになったり、表示に偏りが起きることも少なくありませんでした。

そこで、宿泊施設のカテゴリーを分散させて、人気の高さと多様性を両立した表示ができないかと考えました。これを組合せ最適化問題として設定し、量子アニーリングマシンを使って解を得る手法を開発しました。この手法はA/Bテストでも統計的な効果が証明され、社内でも大きな反響がありました。その後、社内の他のレコメンデーションにも組合せ最適化という概念が取り入れられていったという点で、インパクトのあるプロジェクトだったと思います。

この結果を量子アニーリングマシンのユーザーカンファレンスで発表した際は、ウェブメディアにおいて、売り上げに対する統計的な有意差を持った上で最適化の効果を明らかにした初の事例として評価されました。また、この取り組みの中で、アニーリングマシンをより効率的に使うためのツールとして「PyQUBO(パイキューボ)」というPython用のライブラリも開発しました。

――それはどういったツールなのでしょうか。

量子アニーリングを使う際は、問題をアニーリングマシンに適したイジングモデルに変換する必要があります。しかし、これまでは手作業で数式変形のような変換処理を行う必要があり、とても煩雑でした。「PyQUBO」を使えば、自動でイジングモデルへの変換が行われるため、変換のプロセスをソフトウェアで効率的に行えます。これにより、専門的な知識や経験がなくてもアニーリングマシンを活用できるようになりました。

2018年9月に、アニーリングマシンの実活用推進への貢献を目的に「PyQUBO」をオープンソースとして公開したところ、国際的に非常に大きな反響がありました。現在は、Ocean SDKというD-Wave社の公式開発キットにも採用されています。

デジタルマーケティング領域で新たな道を拓く

――近年では、テレビCMの配置最適化に量子アニーリングを活用したとお聞きしました。

はい。2022年末頃まで取り組んでいました。一つのメディアでも、複数の素材を使ったCMがいくつかあるんです。例えば、アイドルが出演しているCM素材、キャラクターがメインのCM素材、有名な俳優が出演しているCM素材などです。マーケティングの結果によると、その3つの素材のCMをすべて視聴した人はメディアの好感度が上がるというデータが出ていました。つまり、異なる素材を最適な割合やタイミングで視聴者へ届けられれば、より効果的なテレビCMの出稿ができるということです。

そこで、あらかじめ決められた放送枠の中で、最も効果の高いCM素材の配置を予測して最適化する取り組みを行いました。過去の視聴データや、広告代理店から支給されたデータをわずか3時間ほどの間で最適化して放送スケジュールを決めていく作業は、とても大変でした。さらには広告代理店との複雑なデータ連携など、多くの課題を克服しながらの作業でした。

――その結果、どのような効果があったのでしょうか?

最適な結果を出すため、業界で最も精度が高いとされる従来のソルバーの結果と、量子アニーリングマシンで用いるconstrained quadratic model (CQM)というソルバーの結果を比較したところ、CQMの方が良い結果を出したのです。具体的には、CQMを使った最適化は、従来のソルバーよりCMの効果が約4%向上しました。これは手動で行う場合に比べて約90%も良い結果でした。

私が注目したのは、未来の視聴データに対しても高いロバスト性を持っていたことです。ロバスト性が高いほど、外部環境の変化に影響を受けにくく、誤差のあるデータに耐性が高いといえます。つまり、データが多少変わってもいい結果が出やすいということです。

――なぜロバスト性が高くなるのですか?

例えば、最も値が大きい部分を探すのが最適化問題だとすると、「シャープミニマ」と呼ばれる突出して大きい部分を見つけやすいのが従来のソルバーです。ただ、それで得られた解は、少し状況が変わると最適化精度が低くなる特性も持っています。一方、量子アニーリングの解は「フラットミニマ」といって、全体的になだらかな形で大きな値を探すため、一つの予測が外れても別の適切な解が存在し、状況の変化が解に影響しにくいのだと考えられます。

出典:K. Tanahashi et al., Qubits 2023

量子アニーリングによる最適化は、こうした予測の誤差や変動にも頑健な解を提供できる可能性があり、実用的な場面での応用が期待されます。

――野球に例えるなら、打率が低いメンバーの中にホームランバッターが1人いる打線と、全員がヒットを量産できる打線の違いのようなものですね。

そうとも言えます。いつも最適なタイミングでホームランバッターに打席が回るとは限りませんから、やはり全体的にきちんとヒットを打てる打線の方が良好な結果につながりやすいですよね。

この結果を受けて一つ言えるのは、デジタルマーケティングやウェブ関連の実際のビジネスにおいて、量子アニーリングを用いた最適化の有用性が示されたということです。この領域で量子コンピューティングの応用が広がるためには、実際のビジネスで実用的な事例を作り上げていく必要があります。デジタルマーケティングにおいて、量子技術を活用した新たな可能性を切り拓いていく役割を果たすことが、今後の展望として重要だと考えています。

ハードウェアの進歩と共に手法の成熟にも期待

――そうしたビジョンは、非常に大きな変革をもたらす可能性がありますね。

そうですね。例えば自動車メーカーや建設業、港の商船など、物流やスケジューリングの最適化問題は、量子アニーリングの有用性を想像しやすいと思います。一方で、デジタルマーケティングのような領域は、量子アニーリング技術の活用方法がイメージしづらいかもしれません。だからこそ、具体的な成果を示すことで、量子アニーリング技術の価値を証明していきたいと考えています。

――量子アニーリング技術について、今後どういったことを期待されますか?

量子アニーリングの技術に関して言えば、ハードウェアだけが進歩しても、世の中の問題を直接的に解くのは難しい側面があります。ハードウェアの進歩に加えて、新たな手法の開発も進めば、より広範な問題を解決できるようになるでしょう。

手法とは、例えば「列生成法」のように、量子アニーリングが苦手とする制約条件の多い問題を、制約条件が少ない、いわば量子アニーリングにとって簡単な問題に変換し、その解をまた問題に戻すといったものです。

こうした手法を用いれば、量子アニーリングを活用した問題解決の精度や効率を高めることができます。ハードウェアと手法の組み合わせがさらに成熟して、さまざまな実用的な問題を解決できるようになることを期待しています。